日本で最初の銃撃戦と戦死者の初見について

時は天文19年(1550)、戦国時代の真っ只中―

京都は上京川端の辺りで幕府方細川晴元軍三好長慶ながよしとによる小競り合いがありました。

その模様については、以下のリポートからどうぞ!


三好人数にんじゅ東へ打出見物、禁裏築地之上、九過ここのつすぎ時分迄各見物、筑前守は山崎に残、云々、同名日向守きう介十河民部大夫以下都合一万八千、云々、従一條至五條取出、細川右京兆けいちょう人数足軽百人ばかり出合、野伏のぶし有之、きう介与力一人鉄ーに当死、云々…

リポートしたのは、公家の山科言継ときつぐはん!物見見物とばかりの戦闘の様子を見聞してはったんですわ。(『言継卿記』天文19年7月14日条)

そのリポ-トによれば、

三好方「日向守」三好長逸ながやす)と「きう介」三好弓介・弓助)、「十河民部大夫」十河そごう一存)ら1万8000の軍勢と幕府方「細川右京兆」細川晴元)の軍勢が衝突している最中、「細川右京兆」の足軽100人のうちの誰かが放った鉄砲の弾が三好方である「きう介」被官(家臣)に当たって死んじゃった

との事。

つまり、 日本国内において鉄砲が実戦使用された最初の記念すべき記録であり、最初の戦死者も伝えている訳なんですよね。

15世紀にヨーロッパから東アジアへ鉄砲が伝わってくる中、日本の種子島に伝来したのが天文12年(1543)8月25日の事。

以降、鉄砲は和泉堺や紀伊根来、近江国友など各地で生産され、足利将軍家を含め多くの戦国大名が鉄砲装備の充実に力を注いでいきます。

殊に、足利将軍家へは、種子島に伝来した翌年の天文13年(1544)、種子島時堯によって足利義藤(のちの義輝)に献上されており、いち早く鉄砲装備がなされていたのかもしれません。

しかし、後々の鉄砲の実戦戦術みたく、命中率や狙撃率は確実性があったとは考えられません。

言ってみれば、流れ弾に当たってしまって戦死したというのが本当の事なのでしょうね。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、三好方「きう介」は、「日向守」、すなわち三好長逸ながやすの子息で三好弓助(弓介、長虎)と言うようです(※1)。

※1 「日向息久介」(『多聞院日記』永禄10年(1567)10月23日条

因みに、三好長逸ながやす三好三人衆長逸・三好政康・岩成友通の3人をさす)の1人で、その筆頭格として、「筑前守」三好長慶ながよし)から一番信頼されていた人物だそうです。


→※(参考)天野忠幸「三好長逸と息子『弓介』について」(『戦国史研究』66)

 

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