日本で最初の銃撃戦と戦死者の初見について

時は天文19年(1550)、戦国時代の真っ只中―

京都では天文19年(1550)の段階で室町幕府第12代将軍・足利義藤(のちの義輝)を擁立した管領・細川晴元と、細川氏綱を擁する三好長慶ながよしとが抗争を続けていました。

京都を追放され、近江国坂本に拠点をおいて反抗していた晴元-義藤(義輝)方は京都郊外の東山で慈照寺の裏山に中尾城(現在の京都市左京区浄土寺辺り)を築城し、反抗の拠点としていました。

晴元-義藤方の軍勢は7月8日に東山の麓である吉田・浄土寺・北白川へ出兵します。

7月14日の事、三好長逸ながやす・その子弓介・十河一存そごうかずまさら1万8000人の軍勢がが上洛するや、晴元-義藤方の軍勢も応戦し市街戦となります。

この時、主力軍の晴元勢は吉田に、援軍の六角定頼ろっかくさだより勢は北白川にとどまったままで、市街戦は足軽約100人ほどが出撃するという小競り合いな戦いでした。

この上京かみぎょう川端の辺りで戦われた小競り合いの最中、銃撃により三好側に戦死者が出たことが記されています―

三好人数にんじゅ東へ打出見物、禁裏築地之上、九過ここのつすぎ時分迄各見物、筑前守は山崎に残、云々、同名日向守きう介十河民部大夫以下都合一万八千、云々、従一條至五條取出、細川右京兆けいちょう人数足軽百人ばかり出合、野伏のぶし有之、きう介与力一人鉄ーに当死、云々…

公家の山科言継ときつぐが物見見物とばかりの戦闘の様子を見聞してたようです。(『言継卿記』天文19年7月14日条)

すなわち、

三好「筑前守」(三好長慶)方の「日向守」(三好長逸)と「きう介」(三好弓介・弓助)、「十河民部大夫」十河そごう一存)ら1万8000の軍勢と幕府方の「細川右京兆」(細川晴元)の軍勢が衝突している最中、「細川右京兆」の足軽100人のうちの誰かが放った鉄砲の弾が三好方である「きう介」の被官(家臣)に当たって死んじゃった

との事。

つまり、 日本国内において鉄砲が実戦使用された最初の記念すべき記録であり、最初の戦死者も伝えている訳なんですよね。

15世紀にヨーロッパから東アジアへ鉄砲が伝わってくる中、日本の種子島に伝来したのが天文12年(1543)8月25日の事。

以降、鉄砲は和泉堺や紀伊根来、近江国友など各地で生産され、足利将軍家を含め多くの戦国大名が鉄砲装備の充実に力を注いでいきます。

殊に、足利将軍家へは、種子島に伝来した翌年の天文13年(1544)、島主の種子島時堯ときたかによって足利義藤に献上されていますが、晴元が手に入れた鉄砲は天文18年(1549)4月に本能寺を介して種子島から晴元が手に入れたものでした。

「種子嶋より鉄放馳走候て、此方へ到来す、誠に悦喜せしめ候」(『本能寺文書』)と種子島の本源寺から堺の顕本寺に鉄砲が届けられており、晴元は鉄砲が種子島より献上されたことを喜び、本能寺に対し鉄砲献上に対する礼状を種子島に届けるように依頼しています。

種子島時尭は法華宗の有力な外護者であり、全島民が法華宗に改宗するほどでした。

その法華宗の本山である本能寺を通じて、その末寺である堺の顕本寺や檀家の貿易商を経由して種子島から京都へ鉄砲と火薬を移入するルートを作っていたのです。

→※(参考)天野忠幸「大阪湾の港湾都市と三好政権―法華宗を媒介に」(『都市文化研究』4)

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さて、三好方の「きう介」は、「日向守」、すなわち三好長逸の子息で三好弓助(弓介、長虎)と言うようです(※1)。

※1 「日向息久介」(『多聞院日記』永禄10年〔1567〕10月23日条

因みに、三好長逸は三好三人衆(長逸・三好政康・岩成友通の3人をさす)の1人で、その筆頭格として、「筑前守」(三好長慶ながよし)から一番信頼されていた人物だそうです。

→※(参考)天野忠幸「三好長逸と息子『弓介』について」(『戦国史研究』66)

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しかし、後々の鉄砲の実戦戦術みたく、命中率や狙撃率は確実性があったとは考えられません。言ってみれば、流れ弾に当たってしまって戦死したというのが本当の事なのでしょうね。

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