敵兵を救助せよ―戦時下にあったジェントルマン精神―

今上天皇及び皇后の両陛下が今から8年前の平成10年(1998)5月にイギリスを訪問されたときの事。当時、イギリス国内では天皇の訪英に対する反対運動が生じていました。

その中心となっていたのが、戦時中に日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた非人道的な処遇(捕虜への食事に木片の腐ったの=実は牛蒡ごぼうの事=があるとか―)への恨みに対する抗議や謝罪を要求しようというものでした。

そうした世情の最中、ある投稿が『タイムズ』紙に掲載されたのです。それは、元海軍中尉サムエル・フォール卿が寄稿したもので、「元日本軍の捕虜(の1人)として、私は旧敵と何故和解する事に関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったのです―

太平洋戦争勃発に伴い、日本は英領マレー連邦に侵攻を開始し、昭和17年(1942)2月15日、日本軍はシンガポールを陥落させます。

イギリスの重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、インド洋のコロンボへと脱出を図るために途中、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで米・英・蘭・豪の連合国艦隊(ABDA艦隊)に再編成されます。

昭和17年(1942)2月27日から3月1日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖でジャワ攻略の日本軍艦隊とABDA艦隊との間に海戦=スラバヤ沖海戦(ジャワ海海戦)があり、ABDA艦隊艦船は15隻中11隻が撃沈してしまいます。

そうした最中の3月1日、先ず「エクゼター」が撃沈されます。「エンカウンター」も単独航行し続けますが、ついに撃沈されてしまいます。

その「エンカウンター」にフォール卿は砲術士官として乗船していました。

フォール卿たちは、「エンカウンター」の艦長と共にボートに乗って脱出しますが、そのボートも小さな砲弾が着弾して破壊され、フォール卿は艦長共々ジャワ海に飛び込みます。

首から上を出した状態で、浮遊木材に5~6人で掴まり、近海の沿岸部に在るオランダ軍基地からの救助を待っていたそうです。(すでに連合国側の制海権ではなくなっていますね)

周辺海域には同じ様にジャワ海に飛び込み漂流中の「エグゼター」の乗組員や「エンカウンター」の乗組員たちが約21時間もの時間を漂っています。

そんな情況下の翌2日、そこに偶然通りかかったのが、日本海軍の駆逐艦「いかづちでした。

「雷」は漂流者たちに砲を向けつつ接近してきます。フォール卿は「日本人は非情」という先入観があったため、固唾を呑んで見つめつつも、機銃掃射を受けて死ぬんだな、と死を覚悟していたそうです。

実のところ、前日にスラバヤ沖の周辺海域で日本軍の輸送船がアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没するといった被害に遭っていたのです。

何時艦船の魚雷攻撃を受けるか分からない状況では、国際法上、海上遭難者を放置しても違法ではありません。

自分たちは見捨てられるのだろうとフォール卿をはじめ漂流者たちは考えた事でしょう。

しかし、その一方で、助かるかもしれないという一抹の希望もありました。それは―

昭和16年(1941)12月10日、マレー沖で日本海軍航空部隊によるイギリス東洋艦隊への攻撃でイギリスの最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が撃沈された(マレー沖海戦)際、駆逐艦「エクスプレス」が海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めるのですが、日本の航空部隊は一切妨害する事なく、それどころか手を振ったり、親指を立てて、頼むぞ、頑張れ、といった仕草を送り、その救助活動を見守りました。

更には、救助活動後にこの「エクスプレス」がシンガポールに帰投する際も、日本機は上空から視認しただけで、攻撃を差し控えましたのです。

そして前日の3月1日には、撃沈されたイギリス海軍重巡洋艦「エクゼター」の乗組員376名を「雷」の僚艦「いなづま」が救助していたのです。

この折も「エクゼター」の士官たちが兵員に対し、「万一の時は日本艦の近くに泳いで行け、必ず救助してくれる」と話していたのだそうです。士官には「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が頭を過ぎったのでしょう。

そんな思いが頭を過ぎっていた漂流者たちに「雷」は近付いてきたわけです。

― ◇ ◇ ◇ ―

海軍中佐工藤俊作艦長率いる駆逐艦「雷」は、見張りによって「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者400以上」と報告を受けていました。

しかし、危険海域なので、「(敵の)潜望鏡は見えないか」と敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じます。

状況から見て、国際法上、海上遭難者を放置しても違法ではないわけですが、工藤艦長は敢えて救出の命令を下したのです。

「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、傍受されかねない状況を度外視して「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発しました。

「雷」の乗組員がロープや縄梯子、竹竿を差し出して漂流者たちを救助しようとしますが、彼らは誰一人として誰も上がって来ようとしません。

彼らは、重傷者からの救助を最優先しろ、と合図を送ってきました。後年、「雷」の乗組員の方はそうした彼らの行動に「ジョンブル精神」を見たと誇らしげに仰っていたそうです。

この「ジョンブル精神」、簡単に言えば、不屈の精神を持つ本当の意味でのイギリス人という意味で使われます。似たような響きに「ゲルマン魂」とか「大和魂」、「ヤンキー魂」なんかがありますよね。

余談ですが、1912年(明治45)4月14日深夜から翌15日未明にかけて起こった豪華客船タイタニック号沈没事故の悲劇の際、一番多く死亡したのがイギリス人紳士たちだったそうです。

イギリス人紳士たちは沈み行く船の上でも、「レディーファースト」を重視し救助用ボートで順番待ちをしていたのです。死に瀕した場面においても彼らはジョンブル精神が発揮したわけです。(逆に、アメリカ人は我先にと人を押しのけてボートに乗り込んだそうですよ)

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、浮遊木材にしがみついていた漂流者たちは最後の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着きますが、中には「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや安堵感から力尽きて水面下に沈んでいく者もいます。甲板上の乗組員たちも、涙声を嗄らしながら「頑張れ!」と叫び勇気付けます。

こうした光景を見兼ねて何人かの乗組員は自ら海に飛び込み、力尽きてしまった者あるいは重傷者らの体にロープを巻き付けて抱え上げたりしたのです。

こうなると、敵も味方もありませんよね。同じ海軍軍人同士の友情が芽生えるのも不思議ではありません。

乗組員たちは、甲板上で無事に救出できた兵員たちの身体に付いた重油の汚れなど布とアルコールで拭き取って清めてあげました。

また、新しいシャツや半ズボン、靴なども支給し、貴重な飲料水の他に温かいミルクやビール、ビスケットなどの食糧も配られました。飲料水の消費量は実に3トンにも上ったとか―

その後、救出された兵員のうち、士官たち21名が前甲板に集合を命じられました。何事か不安がっていると…

艦橋から工藤艦長が降りて来て士官たちに端正な挙手の敬礼をし、続いて流暢な英語で次のように語り掛けました―

“You had fought bravely.
 Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.”

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。)

「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、例え遙か遠方に1人の生存者が居ても、必ず艦を近付けて停止し、乗組員総出で救助したと云います。

結果、422人もの人命を救助した事になります。「雷」の乗組員約150名の3倍近い人数です。

翌日、救助された兵員たちは、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また艦橋ウィングに立つ工藤艦長に敬礼します。

工藤艦長は、兵員たち1人1人に丁寧に答礼をしていたそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、一体この駆逐艦「雷」の艦長・工藤俊作海軍中佐とは、一体どのような人物だったのでしょう?

工藤俊作海軍中佐は山形県東置賜郡屋代村(現高畠町)出身で、大正9年(1920)、海軍兵学校に第51期生として入学します。

その時期の海軍兵学校の校長が鈴木貫太郎だった事もあり。工藤艦長鈴木貫太郎の影響を強く受け継ぎました。

鈴木貫太郎が校長の時期は徹底したジェントルマン教育が実践されたようで、厳しい規律の中にも明朗さを失わせず、幅広い教養を持たせようとしたカリキュラムでした。

そもそも、日本海軍創設以来、イギリスがそのモデルにあったわけで、創成期の頃イギリスに留学していた服部潜蔵海軍大佐などはジェントルマン精神を実践していた人物として知られています。

また、工藤館長の性格の一端を窺わせるエピソードとして、上述の敵兵救助の際、蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将率いる重巡「足柄」に「エクゼター」と「エンカウンター」の艦長を移乗するよう命令がありました。

その際、高橋中将は双眼鏡で、「足柄」の艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う兵員の余りの多さに驚愕します。

この時、第三艦隊参謀で工藤艦長と同期の山内栄一中佐高橋中将に「工藤は兵学校時代からのニックネームが“大仏”であります。非常に情の深い男であります」と言わせているんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

以上のエピソードをフォール卿はが『タイムズ』紙に寄稿。多くの賛同があって、反日感情は薄れていきました。

そのフォール卿が平成15年(2003)10月19日、来日しました。フォール卿来日の目的は、叶う事なら工藤艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げる事でした。ところが、その願いは叶わず、帰国されます。

フォール卿から依頼を受けていた惠隆之介さんは翌16年(2004)12月に工藤艦長の墓所の所在と遺族を見つけ出します。

遺族の話によると、工藤艦長は昭和54年(1979)1月12日、享年78歳の生涯を閉じていました。

戦後、工藤艦長は暫くは故郷の山形県で過ごしていましたが、奥様の姪御さんが開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移り住んだそうです。生前には軍人時代の話は何一つ家族に話さなかったようです。まさに工藤艦長は“黙して語らず”の余生を生きたんですね。

フォール卿は、改めて平成20年(2008)12月7日に再来日され、工藤艦長の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えられたそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

最後に、こういう話は戦争のない時代では美談になるのでしょうが、いざ戦時中ともなると、ただの命取りになりかねない行為にしか見えませんね。日露戦争時の海軍軍人である秋山真之は近代戦争では人道行為こそ滅亡の遠因、命とりな行為となる―と言い切っています。

秋山真之は米国留学時にヒントを得て海軍戦術の研究に取り組み、中国の『孫子』『呉子』、その他世界各国の戦史を紐解いたそうです。

その中で秋山は「戦術とは戦いと同様のものであり、戦いには戦術が要る。戦術は道徳から開放されたものであり、卑怯も何もない」、すなわち、戦場という複雑かつ過酷な状況下で目的を遂行するためには、その時々の道徳や情とは切り離すべきもの、と捉えていたようです。

それ故に、日本海海戦時にウラジオストック艦隊の追跡を断念し、撃沈したロシア船「リューリック」の乗員救助にあたった司令長官・上村彦之丞を次の様な言葉で批判しています―

「戦略目的を犠牲にしてまで敵の漂流兵をすくうのは、宋襄の仁である」

「宋襄の仁」とは、中国春秋時代の紀元前638年に宋の襄公と楚の成王が戦った泓水(おうすい)の戦いでの際、宋軍の側近が楚軍の布陣がまだ整っていないうちに先制攻撃しようと進言するが、襄公は「君子は人の困っている時に苦しめてはいけない」と言って進言を退け好機を逸したため、遂には楚軍に敗れ、宋は楚の影響下に置かれる事になってしまった故事を云い、この事から、敵に対する不必要な情けや哀れみをかけたために、かえって酷い目に遭う事を「宋襄の仁」と呼ぶようになった、と伝えています。

まともに戦って勝てる相手ではないのに、正々堂々と勝負しようとする考え方など、言語道断です。こうした考え方は、全く戦争という緊張から遠ざかってしまった❝平和ボケ❞してしまった姿が言わしめた出来事なのかもしれませんね。


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