アイドルの元祖?―笠森お仙

鈴木春信画「お仙茶屋」

江戸時代の明和年間(1764~72)に「明和の三美人」と持てはやされた、江戸っ子たちのアイドルが居ました。

浅草・二十軒茶屋「蔦屋」で働く「蔦屋およし」
浅草・奥山の楊枝ようじ屋「柳屋」で働く「柳屋お藤」
谷中やなか・笠森稲荷門前の茶屋「鍵屋」で働く「笠森お仙」

の3人がそうです。これら3件の店は、彼女たちの姿をひと目見ようとする男たちであふれ返り、ひきもきらない賑わいを見せていたのです。

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その中でも「笠森お仙」の人気は抜きん出ていて、江戸中期の文人・大田南畝なんぽ(蜀山人)売飴土平伝あめうりどへいでんによれば、

社前には参詣の人もなく、賽銭箱に投げ入れられる銭の音も無い。俄かにして一の紫雲下り、美人の天上より落ちて、茶店の中に。座するを見る年は十六七ばかり、髪は紵糸しゅすの如く、顔は瓜犀うりざねの如し。みどりまゆずみ、朱き唇、長きくし、低きげた、雅素の色、脂粉に汚さるゝを嫌ひ、美目めもとしな、往来を流眄ながしめにす。将に去らんとして去り難し。閑に托子ちゃだいの茶をはこび、解けんと欲して解けず、寛く博多の帯を結ぶ。腰の細きや楚王の宮様ごてんふうを圧し、衣の着こなしや小町が立姿かと疑う。…(中略)…一たび顧みれば、人の足をめ、再び顧みれば、人の腰を抜かす
と、その美貌を大絶賛しています。

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お茶屋とは、『守貞謾稿』(嘉永6年=1853)よると、

京坂の茶見世には粗末な服装の老婦か中年婦がいて、朝に1度茶を煮出して終日これを用いる。客1人に1椀だけ出し、茶代は5文から10文くらいである。江戸には茶見世が多く、天保の改革以前には16、7から20歳ばかりの美女が化粧をして美服で給仕をした。茶は毎客新しく茶を煮ることもあるが、多くは小ざるの中に茶を入れて熱湯をかける漉茶こしちゃである。客1人に2、3椀は出し、茶代は30文から50文くらいで、100文出す人もいる
とあります。お仙と同じひと時を過ごしたいがために粘ったであろう客も居た事でしょうね(笑)。

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さて、お仙谷中やなか鍵屋五兵衛の娘で、宝暦元年(1751)に生まれました。

宝暦13年(1763)頃から家業の茶屋で茶汲み女として働き出し、細面の瓜実うりざね顔は幼さを感じさせず、客あしらい(接客)も上手かったために評判となります。

明和5年(1768)頃、その噂を聞きつけた人気絵師の鈴木春信も鍵屋を訪れ、お仙の美貌に惚れ込み、彼女をモデルにした錦絵を描いたのです。

これがお仙の人気をさらに拍車をかけるきっかけとなり、ポスター(錦絵)、写真集(絵草紙)、関連グッズ(双六や手拭い、人形)など今でいうところのキャラクターグッズが次々と発売されました。

その様子を、

谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙(十八歳)美なりとて、皆人見にいく。家名鎰屋五兵衛という。錦絵の一枚絵、あるいは絵草子、双六、よみ売りなどに出る。手拭に染める。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形にも作りて奉納す。明和五年(1768)五月堺町にて中島三甫蔵が台詞に言う、采女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙と云々。これよりしてますます評判あり。その秋七月森田座にて中村松江おせんの狂言ありて大当たり。
南畝(蜀山人)自身もしたためています。(『半日閑話』巻12)

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ところが、明和7年(1770)2月頃、お仙が20歳の時に、突然鍵屋から姿を消してしまいました。そのため、お仙が消えた理由について様々な憶測が流布したと云います。

例えば、大田南畝(蜀山人)は、

明和七年庚寅二月、この頃≪とんだ茶釜が薬缶に化けた≫という詞はやる。あんずるに、笠森稲荷水茶屋のお仙他に走りて、跡に老父居るゆえの戯れこととかや(『半日閑話』)
と書き残しています

史実は、お仙幕府旗本御庭番を勤める政之助満済まずみの許に嫁いだのです。明和7年(1771)の事でした―

この倉地家というのは、享保元年(1716)に紀州藩主・徳川吉宗徳川宗家を相続した際、紀州藩で隠密御用を勤めていた薬込役を幕臣として「御庭番家筋」に編入し、代々隠密御用を従事させた家柄でした。

また、笠森稲荷の門前にあった茶屋周辺の地主がこの倉地家でもあったですよね。

その「倉地家」の8代目である政之助お仙は嫁いだのです。

元は百姓の娘だったお仙なので、形式的に倉地家と同じ「御庭番家筋」である馬場家の2代目・善五兵衛信富の養女として結婚。

倉地家の墓地である正見寺(東京都中野区上高田)の「倉地家墓誌」には紀州から江戸に移り住んだ6代目・文左衛門満房以降の当主の名が墓誌に刻まれているのですが、お仙の夫である政之助満済の隣には「深教院妙心大姉 文政十年正月二十九日歿 お仙の文字が刻まれています。

お仙政之助満済との間に久太郎、新平ほか9人の子宝に恵まれ、文政10年(1827)に長寿を全うしたと云います。享年77歳の生涯でした。


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