明治42年(1909、隆熙3年)10月26日早朝―それは中国吉林省
排日朝鮮人団体に所属し、独立運動家となった
午前7時、
この日、初代韓国統監だった伊藤博文がロシアの大蔵大臣ココフチェフと会談するため、
安重根は仲間たちと共に伊藤博文暗殺を実行しようとしていた。
安重根は伊藤博文の到着を待つ日本人たちに中に紛れ込み、駅構内に入った。そして駅構内のプラットホームがよく見える喫茶店に入り、その時を待った。
午前9時、伊藤博文を乗せた特別列車が
ホームで待っていた日本人たちが一斉に日章旗を振って歓迎をした。
ロシア軍の儀仗隊が捧げ銃の敬礼を行い、荘厳な軍楽が流れた。ココフチェフが列車に乗り込み、伊藤博文を出迎えた。
30分後、伊藤博文が列車から降りてきた。各国の外交官らと挨拶を交わした伊藤博文は、整列したロシア軍の儀仗隊を閲兵した。
やがて伊藤博文が列車の方に戻ろうとした時、安重根は喫茶店を飛び出し、ホームへ向かった。
ロシア軍の儀仗隊の後ろにぴったり張り付いた安重根の前に伊藤博文が近付いてきた。
伊藤博文が安重根の眼の前を2〜3歩歩いた時、その間隔は10歩程だった。
次の瞬間、安重根は拳銃を取り出し、伊藤博文を狙撃し、7発の銃声が聞こえた!
そのうちの3発が伊藤博文に命中した。
安重根は直ぐ様、ロシアの憲兵に取り押さえられた。
伊藤博文は現場で応急処置を受けたが、内臓からの出血が酷く、30分後に絶命します。
11時40分、特別列車は伊藤博文の遺体を乗せ
駅構内の派出所で取り調べを受けた安重根は、夜9時頃に体を鎖で縛られ、日本総領事館へ移送され、地下の独房に収監され、6日後の11月1日に旅順刑務所に移送された。
翌明治43年(1910、隆熙4年)2月14日に死刑判決が下り、3月16日に旅順刑務所において処刑された。
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結果的に、安重根によるこの事件が、韓国併合をより一層推し進めてしまったようだ。
伊藤博文は、緩やかな朝鮮国保護国化を目指していたが、排日を掲げる非知識層の頭では理解できなかったようだ。
安重根による伊藤博文の暗殺は、時分で自分の首を締めるという、韓国併合への口実を日本側に与えてしまった―誠に憐れである。






