槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―


わが街・宇治(この場合、広義的に宇治郡宇治郷と久世郡宇治郷と考えて…)に中世から近世への移行期に存在したであろう城館、それが槇島城であり、眞木嶋(槇島)氏が城主として居住していました。

眞木嶋氏は朝鮮の高句麗滅亡後に亡命し、帰化したこま(高麗)氏の氏族で、長保3年(1001)に一族の狛光高が南都楽所がくそ(興福寺などの法会に参勤した奈良の舞楽集団)の奉行に任ぜられて以降、代々雅楽に従事し、楽人として世襲してきました。

さらに、この光高から何代目かの子孫である光助の時分、すなわち久寿元年(1154)に大内楽所(内裏で催される舞楽などに参勤した舞楽集団)に転じ、狛姓から酒波さかなみ姓に改まります。(『狛氏系図』)

その傍ら、山城国宇治郡の宇治離宮八幡宮(現在の宇治神社と宇治上神社)、とくに宇治上神社の脇神主を務める一方で、「宇治まきの長者…(中略)…まきの長者わくの神主<…(下略)…」(『雑秘別録』嘉禄3年=1227=6月)=「槇長者」として氏子地域である五ヶ庄真木島みょう、すなわち槇島の地を治めていたようです。

→(参考)「次槇長者 社官槇嶋事也」(『後法興院記』応仁2年=1468=4月8日条)

この槇島の地は淀川、巨椋おぐら池、宇治川を遡る、いわばその中洲ともいうべき要衝であり、極めて古い時代から、網代あじろによって漁労に携わるにえ人たち(「真木島・桂贄人等」(『執政所抄』保安3年=1122=4月8日条)が根拠を置くなど、中世を通じて河川交通の要地でもありました。

その中心として「宇治網代目代」(『狛氏系図』狛光貞の項)を担ったり、摂関家と結び付いて、摂関家より槇嶋郷神主(長者)職補任をされるなどをしてこの地(五ヶ庄真木島名は冨家ふけ殿が変化したものと考えられている)に定着してゆきます。

→(参考)「冨家殿 号五ヶ庄」(『雑事要録』長享元年=1487=・2年=1488=)
→(注)五ヶ庄とは、真木島名・岡屋名・岡本名・福田名・小厩名・庵主名を指す(『雑々記』大永4年=1524=)

― ◇ ◇ ◇ ―


さて、眞木嶋氏としての初見を見た時、恐らくこれが最初なのでは?と思われるのが、「真木島の十郎」(『古今著聞集』巻第12)のようです。

→(参考)「かゝる程に、眞木島の十郎といふ強盗の張本あり…(中略)…十郎はゆゝしきつは物なり」(『古今著聞集』巻第12 偸盗第19 441「強盗の棟梁大殿小殿が事」)

その後の眞木嶋氏はというと、室町幕府期には山城国守護、あるいは幕府管領の被官としてその名が見えます。

 ○「真木島新右衛門尉光経」(『紀氏系図紙背文書』文和2年=1353=10月)
 ○山城守護畠山基国の被官として「真木島光基・光貞」(『相国寺塔供養記』明徳3年=1392=8月28日)
 ○「真木島光忠」(『大徳寺文書』応永3年=1396=11月)
 ○畠山氏の被官「真木島氏」(『東寺百合文書』嘉吉元年=1441=12月9日)
 ○管領畠山持国の被官「真木島氏」(『東寺百合文書』嘉吉3年=1443=7月5日)

さらに、将軍家直臣団として名を連ね、奉公衆の地位にあったようで、奉公衆たちの交名(=名簿)にも名を連ねています。

 ○「四番衆 雍州眞木嶋六郎藤原光通」(『長享元年九月十二日常徳院御動座當時在陣衆着到』長享元年=1487)
 ○「宇治牧嶋も四番衆ナリ」(『蓮成院記録』延徳3年=1491=8月27日条)
 ○「四番(衆)真木嶋山城守」(『東山殿時代大名外様附』大名外様奉公方之着到)
 ○「五番衆 眞木嶋」(『永禄六年諸役人附』永禄6年=1563=)

また、奉公衆として、少なくとも長禄2年(1458)〜延徳2年(1490)の間、毎年正月11日に将軍に拝謁して年頭の賀を述べています。

→(参考)「眞木嶋次郎」(『殿中申次記』正月11日条)

彼らが拠点としていた槇島城は、山城国の南三郡(久世・綴喜・相楽)の要衝でもあります。

室町幕府期山城守護となった畠山満家は入部にあたって山城国を宇治川の線で二分し、北五郡の守護代に神保久吉を任じ、南三郡(久世・綴喜・相楽)の守護代に遊佐豊後入道をあてたのですが、以降この体制が定着し、槇島城が山城国南三郡(久世・綴喜・相楽)の守護代の本拠地となるのです。

→(参考)「管領(畠山)山城を給はり入部す。宇治より南は遊佐豊後代官、北は神保次郎左衛門尉と云々」(『東院光暁日記抜書』正長元年=1428=8月27日条)

従って、以降戦国期の畿内における合戦の拠点として槇島城が地政学上立地し、さらにはその領主である眞木嶋氏の存在が浮上するわけです。

しかし、不幸な事に「槙島次郎光基事、不慮退彼島云々」(『守光公記』永正17年=1520=3月13日条)や「槇島打死大曲事在之」(天文18年=1549=7月9日条)など相次いで戦死者が出てしまう事態が襲います。

そうして、槇島昭光が登場するんですね。

次回は槇島昭光以降の眞木嶋氏の動向についてチェックします。

― ◇ ◇ ◇―

ところで―

今回調べてみて感じた事は、眞木嶋氏狛氏の後裔だという事。それならば、山城国一揆の際に同族のよしみ狛秀に呼び掛けに応じたのも頷けるかも!と想像できますね。

加えて、狛氏でも上狛村を支配する方と下狛村を支配する方のどちらに近いのかな?との疑問が生じました。

色々と調べてみた中で、確実な証拠というわけではないのですが『永禄九年山城国諸侍木津川原着到状』と言う古文書にヒントらしき文言を見つけました。

これは、永禄9年(1566)4月3日、三好義継が松永久秀及び三好三人衆を討たんがため山城国中の諸侍に軍勢催促し、223人が着到した際の連署状なのですが、その中で「下狛村 下狛大助光政」「上狛村 狛左馬進秀綱」の記述が見られました。

単純に、代々の眞木嶋氏が名前に「光」の一字を充てている事を考えた時、下狛村の「下狛光政」の方が同族なのでは?と思ったのですが、どうでしょうね!?

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光」

posted by 御堂 at 02:28 | Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史
この記事へのコメント
初めまして。槇島豊(東京都在住38歳)と申します。
この記事を非常に興味を持って読ませて頂きました。と言いますのも、私の名前が「槇島」であり、やはり、年齢とともに自らのルーツがどこであるのかを知りたくなってきたからであります。以前、父より祖父が家系図を持っていたとは聞いていたのですが、所在がわからなくなってしまい、今では知る術がなくなってしまいました。しかしながら、祖父(忠三:明治45年生まれ)が広島方面の出身であることと、その父が「寅二」という名前であることはわかっています。この槇島家が御先祖様であるならば、一度、熊本県の禅定寺に子供を連れて行きたいとも考えております。昨今の時代だからこそ、今一度、御先祖様を敬う心を子供に伝えていきたいのが私の気持ちであります。もし、違うようなら、これまでどおりに、東京にある墓が御先祖様であることとしてお参りしてしていく所存ですので、わかる限りで構いませんので、直近(江戸から明治、大正、昭和)までの槇島家の歴史を大変恐縮ではありますが、お調べ頂けないでしょうか。何卒、よろしくお願い申し上げます。
Posted by 槇島 豊 at 2009年05月03日 14:42
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