わが街・宇治(この場合、広義的に宇治郡宇治郷と久世郡宇治郷と考えて…)に中世から近世への移行期に存在したであろう城館、それが槇島城であり、眞木嶋(槇島)氏が城主として居住していました。
眞木嶋氏は朝鮮の高句麗滅亡後に亡命し、帰化した
さらに、この光高から何代目かの子孫である光助の時分、すなわち久寿元年(1154)に大内楽所(内裏で催される舞楽などに参勤した舞楽集団)に転じ、狛姓から
その傍ら、山城国宇治郡の宇治離宮八幡宮(現在の宇治神社と宇治上神社)、とくに宇治上神社の脇神主を務める一方で、「宇治まきの長者…(中略)…まきの長者わくの神主<…(下略)…」(『雑秘別録』嘉禄3年=1227=6月)=「槇長者」として氏子地域である五ヶ庄真木島
→(参考)「次槇長者 社官槇嶋事也」(『後法興院記』応仁2年=1468=4月8日条)
この槇島の地は淀川、
その中心として「宇治網代目代」(『狛氏系図』狛光貞の項)を担ったり、摂関家と結び付いて、摂関家より槇嶋郷神主(長者)職補任をされるなどをしてこの地(五ヶ庄真木島名は
→(参考)「冨家殿 号五ヶ庄」(『雑事要録』長享元年=1487=・2年=1488=)
→(注)五ヶ庄とは、真木島名・岡屋名・岡本名・福田名・小厩名・庵主名を指す(『雑々記』大永4年=1524=)
その後の眞木嶋氏はというと、室町幕府期には山城国守護、あるいは幕府管領の被官としてその名が見えます。
○「真木島新右衛門尉光経」(『紀氏系図紙背文書』文和2年=1353=10月)
○山城守護畠山基国の被官として「真木島光基・光貞」(『相国寺塔供養記』明徳3年=1392=8月28日)
○「真木島光忠」(『大徳寺文書』応永3年=1396=11月)
○畠山氏の被官「真木島氏」(『東寺百合文書』嘉吉元年=1441=12月9日)
○管領畠山持国の被官「真木島氏」(『東寺百合文書』嘉吉3年=1443=7月5日)
さらに、将軍家直臣団として名を連ね、奉公衆の地位にあったようで、奉公衆たちの交名(=名簿)にも名を連ねています。
○「四番衆 雍州眞木嶋六郎藤原光通」(『長享元年九月十二日常徳院御動座當時在陣衆着到』長享元年=1487)
○「宇治牧嶋も四番衆ナリ」(『蓮成院記録』延徳3年=1491=8月27日条)
○「四番(衆)真木嶋山城守」(『東山殿時代大名外様附』大名外様奉公方之着到)
○「五番衆 眞木嶋」(『永禄六年諸役人附』永禄6年=1563=)
また、奉公衆として、少なくとも長禄2年(1458)〜延徳2年(1490)の間、毎年正月11日に将軍に拝謁して年頭の賀を述べています。
→(参考)「眞木嶋次郎」(『殿中申次記』正月11日条)
彼らが拠点としていた
室町幕府期に山城守護となった畠山満家は入部にあたって山城国を宇治川の線で二分し、北五郡の守護代に神保久吉を任じ、上山城地域(宇治・久世・綴喜・相楽郡)の守護代に遊佐豊後入道をあてたのですが、以降この体制が定着し、
→(参考)「管領(畠山)山城を給はり入部す。宇治より南は遊佐豊後代官、北は神保次郎左衛門尉と云々」(『東院光暁日記抜書』正長元年=1428=8月27日条)
従って、以降戦国期の畿内における合戦の拠点として
しかし、不幸な事に「槙島次郎光基事、不慮退彼島云々」(『守光公記』永正17年=1520=3月13日条)や「槇島打死大曲事在之」(天文18年=1549=7月9日条)など相次いで戦死者が出てしまう事態が襲います。
そうして、槇島昭光が登場するんですね。
※(関連)山城国宇治郡と久世郡の境界線―中世期の平等院は宇治郡だった!―→○
※(参考)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光(2)―→○
※(参照)○「槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光」
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