槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―

わが街・宇治―

この地域は古代から中世にかけての時期、古畿内(山城・大和・河内)の分岐点であり、緩衝地帯というべき地域でした。

源平争乱の発端となった治承期(橋合戦)、源氏同士の主導権争いとなった寿永期(河合戦)、鎌倉幕府の軍勢による京都侵攻を許した承久期の三度にわたる宇治川の合戦や、南北朝期に南朝方の楠木正成による焼き討ち、応仁・文明の争乱を経て戦国の争乱へと展開されていくなか、畠山政長・義就による内訌、あるいは細川京兆家けいちょうけ内の内訌など、朝廷や武家の中心都市であった京都につながる道筋にあったのが宇治という街であった訳なんですね。

そうした状況の中で、上山城地方(山城国久世郡・綴喜郡・相楽郡、すなわち南山城地域を指す)の拠点として存在したのが眞木嶋まきのしま(槇島)城(館)であり、そこには宇治郡眞木嶋(槇島)地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏が勢力を張っていました。

― ◇ ◇ ◇ ―

眞木嶋(槇島)氏は朝鮮の高句麗滅亡後に亡命し、帰化したこま(高麗)氏の氏族で、長保3年(1001)に一族の狛光高こまのみつたか南都楽所なんとがくそ(興福寺などの法会ほうえに参勤した奈良の舞楽ぶがく集団)の奉行に任ぜられて以降、代々雅楽ががくに従事し、楽人がくじんとして世襲してきました。

さらに、この光高から何代目かの子孫である光助みつすけの時分、すなわち久寿元年(1154)に大内楽所おおうちがくそ(内裏で催される舞楽ぶがくなどに参勤した舞楽ぶがく集団)に転じ、狛宿禰こますくね姓から酒波宿禰さかなみのすくね姓に改まります。(『狛氏系図』)

光助 姓於酒波 左府生(『楽所系図』三条西実隆筆本)

光行 光助子。刑部丞。改姓藤原(『催馬楽師伝相承』)

光貞 左近府生 光季外孫也 父内舎人藤原ヽヽ(『楽家系図』)

そのかたわら、山城国宇治郡の宇治離宮八幡宮(現在の宇治神社と宇治上神社)、とくに宇治上神社の脇神主を務める一方で、「槇長者」として氏子地域である五ヶ庄真木島みょう、すなわち眞木嶋(槇島)の地を治めていたようです。

宇治まきの長者則助…(中略)…それが子にてまきの長者わくの神主光助といふもの(『雑秘別録』陵王の項)

是日平等院鎭守離宮祭也…(中略)…神輿三基、次社官四人馬上、次槇長者社官槇嶋事布馬上、次宇治長社官云々者布衣馬上也(『後法興院記』応仁2年〔1468〕4月8日条)

この眞木嶋(槇島)の地は淀川、巨椋池おぐらいけ、宇治川をさかのぼる、いわばその中洲ともいうべき要衝であり、極めて古い時代から、網代あじろによって漁労に携わる贄人にえびとたちが根拠を置くなど、中世を通じて河川交通の要地でもありました。

四月
御賀茂詣事、中申日(四月)
…(中略)…
篝鵜飼等相具。付松可參之由。兼下知眞木嶋桂贄人等也
(『執政所抄』下、4月8日の項)

その中心として「宇治網代目代」(『狛氏系図』狛光貞の項)=宇治網代司あじろつかさ目代もくだいを担ったり、摂関家と結び付いて、摂関家より槇嶋郷の刀禰とね(長者)職(=神主)を保証されるなどをしてこの地(五ヶ庄ごかのしょう真木島まきのしまみょう冨家殿ふけどのが変化したものと考えられている)に定着してゆきます。

光貞 左近府生 實外孫女子也宇治網代目代内舎人子云〻、理宮長者酒浪友忠子也(『狛氏系図』『體源抄』)

長享二年
…(中略)…
冨家殿 五ヶ庄
(『雑事要録』11、長享2年〔1488〕)

※五ヶ庄とは、真木島名・岡屋名・岡本名・福田名・小厩名・庵主名を指す。(『雑々記』大永4年〔1524〕)
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その後の眞木嶋(槇島)氏はというと、室町幕府期には山城国守護、あるいは幕府管領の被官、とくに畠山氏の被官としてその名が見えます。

路次行列。
…(中略)…
侍所畠山右衞門佐源基國
…(中略)…
 郎等三十騎。皆總鞦。着甲冑
…(中略)…
槇嶋次郎左衞門尉光基。 萌黄糸。鹿毛。
槇嶋三郎光貞。 萌黃糸。鴾毛。
(『相国寺塔供養記』明徳3年〔1392〕8月28日条)

侍所頭人兼山城国守護である畠山基国が相国寺供養に参加したときに付き従った被官の中に「槇嶋次郎左衛門尉光基」「槇嶋三郎光貞」の名が見られる。

當所下三栖堺相論事。槇島惣官爲仲人(『看聞御記』応永29年〔1422〕9月4日条)

槇島惣官 管領家人(『看聞御記』応永29年〔1422〕9月5日条)

→伏見庄と下三栖みす庄(現、京都市伏見区)の間で草刈争論が起こり、その仲介者に管領畠山満家の被官として「槇島惣官」の名が見られる。

畠山殿より以槙(嶋)掃部可召返舞田北方補任状之由被仰之間、披露了(『鎮守八幡宮供僧評定引付』嘉吉元年〔1441〕12月9日条)

畠山持国の被官「槙(嶋)掃部」が東寺に使者として赴いている。

一散所事
 爲牧嶋御使、自管領(持國)被仰出之趣、九条散所可出公方築地之由、被仰之間、此子細令披露之處、免除之支御目可申、雖然、不可叶者、無力次第也、先可參申、治定了、御使節牧嶋百疋可随身之由、治定了、則參申子細、長日伽藍掃除散所免除他役之由令申、當職之間、可免除之由、可有御下知之由、被仰出了
(『東寺百合文書』『廿一口方評定引付』嘉吉3年7月5日条)

管領畠山持国の被官である「牧嶋」氏が、東寺領九条散所に対する将軍家築地役免除につき、東寺へ使者として赴いている。

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その後、将軍家直臣団として再編された奉公衆たちの交名きょうみょう(=名簿)にも名を連ねています

長享元年九月十二日常德院殿樣江州御動座當時在陣衆着到
…(中略)…
  四番衆
…(中略)…
雍州木嶋六郎藤原光通。
(『長享元年九月十二日常徳院御動座當時在陣着到』長享元年〔1487〕)

宇治牧嶋も四番衆ナリ(『蓮成院記録』延徳3年〔1491〕8月27日条)

大名外様奉公方之着到
…(中略)…
四番 次第不同
…(中略)…
 真木嶋山 寄人不勤番衆也城守
 同次郎
(『東山殿時代大名外様附』大名外様奉公方之着到、明応元年〔1492〕5月19日以降、同2年〔1493〕正月17日以前)

光源院殿御代當參衆並足輕以下衆覺。
…(中略)…
 詰衆番衆。
…(中略)…
 五番
眞木嶋
(『永禄六年諸役人附』永禄6年〔1563〕)

また、奉公衆として、少なくとも長禄2年(1458)~延徳2年(1490)の間、毎年正月11日に将軍に拝謁して年頭の賀を述べています

 同十一日…(中略)…眞木嶋
…(中略)…
一御對面之次第事。眞木嶋
一…(中略)…まきのしまと申入て。眞木嶋御目也。
(『長禄二年以来申次記』)

   十一日
一…(中略)…
 眞木島も參也。
   御對面之次第ハ。一番ニ眞木島
(『長禄年中御対面記』)

   十一日
一御對面之次第は。一番眞木島
一…(中略)…眞木島出仕。
一御對面次第は。…(中略)…次眞木島掛御目。
(『年中恒例記』)

  十一日。
一…(中略)…眞木嶋も參也。御對面之次第。一番ニ眞木嶋と申入
(『殿中申次記』)

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室町時代、山城国の守護は宇治川を挟んで北側の下五郡(愛宕郡、葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、宇治郡)と南側の上三郡(久世・綴喜・相楽郡)に守護代を配置していました。

管領(畠山)給山城守護入部云々、自宇治南ハ遊佐豊後代官、北ハ神保次郎左衞門尉云々(『東院光暁日記抜書』正長元年〔1428〕8月27日条)

→畠山満家の山城守護職就任以後、下五郡と上三郡とに統治支配が二分され、それぞれに守護所が置かれることとなり、以降慣例化されます。

なかでも、眞木嶋(槇島)氏が拠点としていた眞木嶋(槇島)城は、上三郡の守護代が守護所として拠点を置いた地でした。

以降、戦国期の畿内における合戦の拠点としても、眞木嶋(槇島)城が地政学上要衝の地として重要視され、その領主である眞木嶋(槇島)氏の存在が浮上するわけです。

しかし、不幸な事に天文18年(1549)7月9日、三好長慶の入京にともなう京中神祇伯邸の戦闘において、足利義藤(のち義輝)の奉公衆「槇島」氏が戦死するという事態が襲います。

槇島打死大曲事在之(『厳助往年記』天文18年〔1549〕7月9日条)

それ以降、「眞木嶋」姓を名乗る眞木嶋(槇島)昭光が登場するわけですね。

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※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その3)―槇島(眞木嶋)昭光(2)
※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光

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