西野山古墓は坂上田村麻呂の墓なのか?―文献史学の成果として

西野山古墓の推定位置

先日、京都市山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓」が、坂上田村麻呂の墓である可能性がある―との研究成果が京都大学文学研究科の吉川真司准教授の文献調査によってなされました。

その文献調査によって、ある文献から田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述が見つかり、さらに平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、それは「西野山古墓」の可能性がある―というのです。

田村麻呂の墓の場所が記されていたのは、清水寺の由来や公文書を収めた『清水寺縁起』平安後期の作)で、所収の弘仁2年(811)10月17日付の朝廷の命令書『太政官符』の表題に記されていたのです。

太政官符
  賜本願将軍墓地官府(在山城国宇治郡七条昨田里西栗栖村
太政官符 民部省
 四至(東限六七条間畔并公田、西・南限大路、北限自馬背坂上橋之峰)
 …(中略)…
「奉 勅、件地宜永為故大納言贈従二位坂上大宿祢田村麻呂墓地…(下略)…
   弘仁ニ年十月十七日
(『清水寺縁起』より)
『太政官符』とは、行政の最高機関・太政官が土地を管理する民部省に送った文書ですが、そこには田村麻呂の墓地として、「山城国宇治郡七条咋田くいた西里栗栖村の水田、陸田(畑)、山(山林)を与える」との文言が記されていたのです。

山城国宇治郡は現在の京都市の南東部である京都市山科区全域(旧山科村)・同伏見区醍醐地区(旧醍醐村)と宇治市東部で山科川から宇治川の右岸一帯(旧宇治村=東宇治村、笠取村)をさし、同区の平安時代条里図条里制の地図)を基にした『山城国宇治郡山科地方図』(東京大学史料編纂所所蔵)には、田村麻呂の墓地として与えられた場所も記されてあります。

また、鎌倉初期勧修寺かじゅうじ(なお、家名や寺名では「かじゅうじ」、地名・住所表記は「かんしゅうじ」と呼称されています…)が寺辺所領の領有を主張するために作成された『山城国山科郷古図』(原図は旧水戸彰考舘が所蔵していたが、戦争により被災、現在、東京大学史料編纂所が複製図を所蔵)の三条十二里に描かれている醍醐寺や三条十三里に描かれている延喜御陵(醍醐天皇陵)、四条九里に描かれている法界寺(日野薬師)などはかなりの確率で現在の立地場所と照応できるので、これらを現在の地図と比定した結果、田村麻呂の墓地は現在の山科区西野山岩ヶ谷町周辺に該当し、その付近には西野山古墓があったのです。

「本願将軍」とは田村麻呂の事を指します。墓地領域の説明で東限が「六七条間畔」(=六条と七条の間の畔)と記載されていますが、これは表題にある「宇治郡七条昨田里西栗栖村」である事は明確です。

但し、「昨田里」自体は六条十六里に該当するので、実際には「七条昨田西里、栗栖村」が正しいのだと思われます。

また、西・南限は「大路」と記載していますが、平安京(城)から東山(西野山)を越えて山科に入る峠道としては、東海道東山道北陸道を兼ねた大路に繋がる日ノ岡越・渋谷越・滑石すべりいし越の3ルートがあり、なかでも平安京(城)への入り口である羅城門に最もスムースに接続するルートは滑石越の道が当てはまるようです。

田村麻呂に関する説話的伝承として「王城鎮護のための東面埋葬」が知られていますが、『清水寺縁起』や『田邑麻呂伝記』には、田村麻呂を埋葬するにあたり、嵯峨天皇の勅により、「甲冑・兵仗・剣鉾・弓箭」を調えて副葬し、「城東に向かひて立ちてほうむったと云われていて、東海道東山道北陸道を経て平安京(城)へ入るにあたって東の玄関口となる場所に田村麻呂の墓が葬られたとしても真実味がある感じです。

さらに、北限として「馬背坂」が記載されてますが、これは『山城国山科郷古図』に記載がみられる交坂路まぜさかみちのようですが、特定できる峠道が断定できない感じです。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、「西野山古墓」は、大正8年(1919)に地元住民によって偶然発見され、京都帝国大學(現、京都大学)による発掘調査で金銀平脱双鳳文鏡、金装大刀、鉄鏃などの副葬品が発見された(現在、山科西野山古墓出土品として国宝に指定されている)事で、被葬者を平安初期の貴族、またはそれらの一族の墓と考えられていました。

現在では竹薮に覆われてしまい、位置の特定ができていないのが現状ですが、今から35年前の昭和48年(1973)10月に先達による研究成果によって議論が投げ掛けられていました。

民間の研究会などで考古学や文献の研究されている歴史考古学研究家・鳥居治夫さんという方が近江考古学研究会が刊行した学術雑誌『近江』に発表した「山城国宇治郡条里に関する考察」の中で、西野山古墓田村麻呂の墓と推定されていたのです。

フィールドワークなどで各地を歩いたり、地上で確認できる遺跡を探し求めた鳥居さんは、古代に耕作地を方形の桝目で区画した「条里」を現在の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法(条理制研究で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元し、田村麻呂の墓の位置を推定されました。

  • ポイント・その1 古代の住所表記―「条里」

  • 研究の根幹となるのが古代の土地区画「条里」。7世紀に成立した律令制度に伴い、全国的に田畑を1辺約650mの碁盤の目状に区切りました。各条里はさらに36坪に分かれ、「条、里、坪」で現在と同様の住所表記が可能になったのです。

    条里は、現在の地割りや地名にも残っているため、現在の地図に復元する―という研究が可能なのです。

  • ポイント その2 太政官符に着目

  • 『山城国山科郷古図』によって、京都市山科区一帯の条里や道路や地形、社寺などが復元できます。

    特に、醍醐天皇陵は最も現在位置と照応できるため、これを基準目標にしたり、明治以後の地籍図や航空写真を参照する事で、条里の復元はほぼ完了している訳です。
吉川さん、鳥居さん共に『清水寺縁起』田村麻呂の死後、その墓地と定めた『太政官符』に着目した結果、西野山古墓田村麻呂の墓に相応しいのでは?とされたのです。

ただし、吉川さんと鳥居さんの説には若干の違いが見られます。

吉川さんは『続群書類従』所収の『清水寺縁起』「咋田里西(咋田西里)栗栖村の土地を墓地として与える」という『太政官符』の表題に着目されましたが、鳥居さんは同じ『清水寺縁起』でも表題が欠落している『平安遺文』を典拠として、田村麻呂の墓の位置は当時の『京都市遺跡地図』(現在は修正されている)に求めたため、ずれが生じています。

しかし、こうした吉川さんと鳥居さんの研究成果や方法論は歴史文書を読み解く「文献史学」の面目躍如といえるでしょうね。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)鳥居治夫「山城国宇治郡条里に関する考察」『近江』第4号、近江考古学研究会
※(参考文献)上原真人編『皇太后の山寺―山科安祥寺の創建と古代山林寺院―』(柳原出版)
       第1部「安祥寺成立の歴史的背景」
       第1項「近江京・平安京と山科」
       (三)坂上田村麻呂の墓(吉川真司執筆)
※(参考文献)鳥居治夫「坂上田村麻呂墓の再発見と墓の位置」『日本歴史』第767号、日本歴史学会

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)田村麻呂の墓か 山科・西野山古墓 文献で一致(京都新聞2007-06-04)→



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posted by 御堂 at 01:07 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
しばやんさん、こんにちは!

坂上田村麻呂公園は確かに古くからの伝承で定まったのかな?詳しくは調べてみる必要がありますので、ご猶予を!…(とは言いつつ、学生時代に友人たちと訪れた事あるんですよね、この公園!)
Posted by 御堂 at 2011年05月26日 13:26
坂上田村麻呂は、甲冑・剣・弓矢を着用して、立ちながら葬られたという話を読んだことがあります。

坂上田村麻呂公園という公園の中にもお墓があるといろんな人が書いていますが。このお墓は関係ないのでしょうか。
http://shunji.chu.jp/yamasina/saka/index.html
Posted by しばやん at 2011年05月21日 19:02
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