先日、京都市山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓」が、坂上田村麻呂の墓である可能性ある―との研究成果が京都大学文学研究科の吉川真司准教授の文献調査によってなされました。
その文献調査によって、ある文献から田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述が見つかり、さらに平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、西野山古墓と一致したのだというのです。
墓の場所が記されていたのは『清水寺縁起』(平安後期の作)で、所収の弘仁2年(811)10月17日付の朝廷の命令書「太政官符」の表題に記されていました。
行政の最高機関・太政官が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地として、「山城国宇治郡七条
山城国宇治郡は現在の京都市山科区一帯にあたりますが、同区の平安時代の条里図(条里制の地図)を基にした「山城国宇治郡山科地方図」(東京大学史料編纂所所蔵)には、田村麻呂の墓地として与えられた「七条咋田西里」の場所も記されており、これを現在の地図で照合した結果、現在の山科区西野山岩ヶ谷町にあたり、西野山古墓の場所とぴったり一致した―という訳なんですね。
さて、この研究成果、35年前の昭和48年(1973)10月に先達によって議論は投げ掛けられていました。
民間の研究会などで考古学や文献の研究されている歴史考古学研究家・鳥居治夫さんという方が近江考古学研究会が刊行した学術雑誌『近江』に発表した「山城国宇治郡条里に関する考察」の中で、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定されていたのです。
フィールドワークなどで各地を歩いたり、地上で確認できる遺跡を探し求めた鳥居さんは、古代に耕作地を方形の桝目で区画した「条里」を現在の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法(条理制研究)で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元し、田村麻呂の墓の位置を推定されました。
ポイント その1 古代の住所表記―「条里」
研究の根幹となるのが古代の土地区画「条里」。7世紀に成立した律令制度に伴い、全国的に田畑を1辺約650mの碁盤の目状に区切りました。各条里はさらに36坪に分かれ、「条、里、坪」で現在と同様の住所表記が可能になったのです。
条里は、現在の地割りや地名にも残っているため、現在の地図に復元する―という研究が可能なのです。
ポイント その2 太政官符に着目
京都市山科区の一帯は「山科郷古図」という12世紀頃の貴重な古地図があり、条里のほか、道路や地形、社寺などが描かれています。現在も同位置に残る醍醐天皇陵や東海道(現三条通)などを目標にしたり、明治以後の地籍図や航空写真を参照する事で、条里の復元はほぼ完了している訳です。
吉川さん、鳥居さん共に清水寺の由来や公文書を収めた『清水寺縁起』の田村麻呂の死後、その墓地と定めた太政官符に着目した結果、西野山古墓こそが、田村麻呂の墓に相応しいと結論付けられました。
ただし、吉川さんと鳥居さんの説には若干の違いが見られます。
吉川さんは『続群書類従』所収の『清水寺縁起』で「咋田里西(咋田西里)栗栖村の土地を墓地として与える」という太政官符の表題に着目されましたが、鳥居さんは同じ『清水寺縁起』でも表題が欠落している『平安遺文』を典拠として、墓の位置は当時の「京都市遺跡地図」(現在は修正されている)に求めたため、ずれが生じています。
しかし、吉川さんと鳥居さんの研究成果や方法論は歴史文書を読み解く「文献史学」の面目躍如といえるでしょうね。
※(参照)「田村麻呂の墓か 山科・西野山古墓 文献で一致(京都新聞2007-06-04)」→○
西野山古墳は坂上田村麻呂の墓なのか?―文献史学の成果として
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