(史料紹介)終戦直前、東条英機の手記

東条英機 東条英機の手記

戦時下の昭和16年(1941)10月から同19年(1944)7月まで内閣を組閣していた東条英機の敗戦直前の昭和20年(1945)8月10日から14日までの間に書いた手記国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されている事がわかり、一般公表されています。

同館によれば、この手記東京裁判(昭和21年=1946=5月~23年=1948=11月)で東条英樹の主任弁護人を務めた清瀬一郎が法務省へ寄贈した資料の一部で、鉛筆書きの肉筆メモや、和文タイプで打ち直された資料などが揃っている。法務省が平成11年度(1999・4~2000・3)に同館へ移され、昨年から一般公開されており、申請すれば誰でも閲覧できるそうです。

手記は、はがき大のメモ用紙30枚に日付順で、やや右上がりな字体で整然と鉛筆書きされており、“メモ魔”と云われていた東条英機の几帳面な性格が窺えます。

東条英機が終戦目前に書き残した手記の要旨は以下の通り(原文は片仮名表記。一部の漢字を平仮名にし、句読点を補っている)―

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▽8月10日

 お召しにより重臣一同参内。聖上より、帝国の今後採らんとする方針については総理より説明を受けたるごとし、よって重臣の意見を問う、との御言葉あり。東条大将の奉答要旨は左のごとし。

 (奉答要旨)

 事前に御裁断を経て外交上の手続を了せる以上別に所見を有せしも最早これを申し上げ、御聖明を乱すは恐懼きょうくに堪えざるをもって差し控うることとしたし。

 けだし敵側の提示せる条件を見るにあたかも「手足をまずもぎ、しかも命を敵側の料理にまかせる」ごとき結果となり、たとえ皇位確保国体護持と称するもこれいたずらに空名に過ぎず。

 皇位確保、国体護持については当然にして、これをしも否定する敵側の態度なりとせば、一億一人となるを敢然戦うべきは当然なり。統帥大権を含む統治大権は毫末ごうまつも敵側に触れしむべきにあらず。また第一線皇軍将兵は堅く戦勝を信じ、現に只今でも勇戦敢闘一死を顧みず、死に就て居り。既に幾多の犠牲者は喜んで大義に殉じつつ在り。

 「東亜の安定を確保し、世界平和に寄与する」ことは、自存自衛を確保せんとすること共に本戦争の目的なることは宣戦の御詔勅に明示せられたる所にして大東亜宣言の主旨又これに発す。

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 ▽8月11日

 今後予見すべき情勢判断

 新爆弾に脅え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く「敗戦者なり」との観念に立ちたる無条件降伏を応諾せりとの印象は軍将兵の志気を挫折せしめ、国民の戦闘意思低下せんとしつつある現況に更に拍車を加うる結果となり、軍の統帥指揮上に大なる混乱を惹起し、戦闘力において精神的著しく低下を見るに至るなきやを恐る。

 国体護持なるものは軍備維持なくしては空文に過ぎず。無条件降伏受諾の影響は、軍、国民の志気阻喪を来し、この際交戦力に大なる影響を及ぼすことを恐るるのみならず、国民はややもすれば一段安きに考えたる国民として軍部をのろうに至るなきや。

 ▽8月13日

 戦いは常に最後の一瞬において決定するの常則は不変なるにかかわらず、その最後の一瞬においてなお帝国として持てる力を十二分に発揮することをなさず敵の宣伝政略の前に屈し、この結末を見るに至る。

 もろくも敵の脅威に脅え、簡単に手を挙ぐるがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感じるところ、上御一人に対し、また国民に対し、申訳なき限り。願くは今後の国民諸君、降服によりて来るべき更に大なる苦難を忍びに忍び他日の光栄ある帝国建設に努められんことを伏して願て止まず。

 ▽8月14日

 赤松大佐へ

 大義に殉ぜる犠牲も遂に犬死に終わらしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。

 事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申し上げる。

 犯罪責任者としていずれ捕えに来るべしその際は日本的なる方法によりて応ゆべし、陛下が重臣を敵側に売りたるとのそしりを受けざるごとく、また、日本人として敵の法廷に立つごときことは、日本人として採らざるところ、その主旨にて行動すべし。

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手記は、政府が国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決めた8月9日の御前会議の翌日であるである10日に開催された重臣会議の記載から始まっており、席上、経緯を説明され、意見を求められた東条昭和天皇に上奏したとする内容を「奉答要旨」として細かく残しています。

「東亜安定と自存自衛を全うすることは大東亜戦争の目的なり、幾多将兵の犠牲国民の戦災犠牲もこの目的が曲りなりにも達成せられざるにおいては死にきれず」(※かな部分は原文ではカタカナ)と戦争目的が達成されないままポツダム宣言を受諾すれば、戦争による多くの犠牲者が死んでも死にきれない、という趣旨の発言をしたようです。しかし、最終的に昭和天皇のご聖断で、終戦を受け容れた事も記載しています。

翌11日には前日を顧みて、「無条件降伏を応諾」すればややもすれば一段安きに考えたる国民として軍部をのろうに至るなきや」と、無条件降伏すれば国民が「軍部をのろう」とし、天皇制を中心とした「国体護持」が受け容れられないなら「敢然戦うべき」と戦争継続を昭和天皇に訴えていた様子が窺い知れます。

政府がポツダム宣言受諾を決めた事について、「新爆弾に脅え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降服を応諾せりとの印象」と政府の“弱腰”を厳しく批判し、軍人として徹底抗戦への未練も覗かせています。

13日には「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及び国民の無気魄むきはくなりとは、夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」と悔しさを当時の政府や国民にぶつけている。

そして14日には首相時代の秘書官に宛てて「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と記し、自決の覚悟を綴っています。(→9月11日、東条は拳銃による自決を図るが一命を取り留めている)

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東条英機A級戦犯として東京裁判で絞首刑判決を受け、同23年(1948)12月に処刑されます。

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