浄瑠璃坂の仇討

寛文12年(1672)2月3日未明の事―

寛永11年(1634)11月2日、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った伊賀越の仇討ち事件(鍵屋の辻の決闘)や元禄15年12月14日(1702)、大石内蔵助くらのすけ以下47名の旧赤穂浅野家遺臣による吉良内蔵允くらのすけ上野介及びその家臣たちを斬殺した元禄赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)に並ぶ「江戸三大仇討ち」として知られる浄瑠璃坂の仇討ちが、旧宇都宮奥平家家臣・奥平源八とその一党によって、行使されました。

事の発端は―

寛文8年(1668)3月2日、臨済宗妙心寺派・神護山興禅寺(栃木県宇都宮市今泉)で催された前宇都宮城城主・奥平忠昌の60日忌法要での事。

当時、奥平家家中には長篠の戦いで武勲を挙げて以来、将軍に対し永代御目見えを許されるという特権を得た「七族五老」と呼ばれる重臣12家(のち「大身衆」)がありました。

この忠昌の法要において、奥平家の譜代衆である「五老」側の奥平内蔵允くらのすけ奥平家の一門衆にあたる「七族」側の奥平隼人はやとの2人が些細ささいな事から口論となり、憤慨した内蔵允くらのすけ隼人はやとに斬りかかったのです。

実はこの2人、武断派の隼人はやとに対して内蔵允くらのすけは文治派だった事から、常日頃から隼人はやと内蔵允くらのすけを軽侮していたのです。

度重なる罵倒雑言に耐えかねた内蔵允くらのすけですが、やはりというか…逆に返り討ちに遭って深手を負います。(宇都宮興禅寺刃傷事件

その場に居合わせた「大身衆」の同輩・兵藤玄蕃げんばなどの仲裁によって、双方はそれぞれの親族宅へ預かりの身となりますが、内蔵允くらのすけはその夜に自刃。藩庁へは興禅寺での刀傷かたなきずがもとで「破傷風はしょうふうで死去」と報告されます。

主家である奥平家にとっては、よりにもよって前藩主の法要での、重臣同士による刃傷沙汰にんじょうざたでありながら、裁定がなかなか定まらない状況が続きます。

裁定が定まったのが、事件から半年を経た9月2日の事。奥平家奥平隼人はやとを改易、内蔵允くらのすけの遺児で12歳の源八、並びに内蔵允くらのすけの従弟・伝蔵は家禄没収の上、追放が申し渡されます。

結果として、両者ともに奥平家を追放させられたので、喧嘩両成敗の感じかな、と思われがちなのですが、実は双方の処遇には大きな差があったのです。

喧嘩両成敗というのなら、隼人はやとは切腹のはず!それが、源八らは即日退去を命じられたのに対し、隼人はやとらには護衛を付けさせて送り出しているのです。

奥平家の家中では、この処分に対し喧嘩両成敗に反しており不公平である、と追放された源八らに同情する者が続出し、奥平家を見限って浪人した者さえ出てくる始末…

源八に同情して自ら浪人の身となった同志は40数名に及び、これらの者たちが源八と徒党を組んで、仇討ちを決意していくのです。

仇討ちの作戦計画・立案・実行の首謀者は「桑名頼母たのもという知られざる智謀の士であった」(『中津藩史』)と云います。

― ◇ ◇ ◇ ―

浪人となって仇討ちの機会を臨んでいた源八ら一党は寛文9年(1669)7月3日、まず手始めに、追放処分を受けず奥平家とどままっていた隼人の実弟・奥平主馬允しゅめのすけ奥平家の転封先である、出羽国村山郡の上山かみのやま(現、山形県上山市)で待ち伏せし、討ち取ります。

源八らの襲撃を予想した隼人はやとは江戸市ヶ谷いちがや浄瑠璃坂(現在の東京都新宿区市谷砂土原町いちがやさどはらちょう)の鷹匠頭たかしょうがしら戸田七之助の屋敷へ身をかくします。

源八ら一党は 隼人はやとを付け狙い、ついに寛文12年(1672)2月3日未明、源八とその一党42名は隼人はやとの潜む戸田屋敷へと討ち入ります。

隼人はやとの父・半斎を討ち果たしましたが、当の隼人はやとを見つけられず、一党は本願を断念し、屋敷から引き上げます。

ところが、一党が牛込御門前まで来たところで、隼人はやとが手勢を率いて追ってきたのです。源八らはとって返し、隼人はやとと対決しその首級を見事討ち取ります。

その後、「奥平源八、同伝蔵、夏目外記、右三人之者御尋之儀ニ候間、早々罷出可申候。尤宿仕候者有之候ハ、急度可申出候」という幕府の「おぼえ」が布達され、源八ら一党は幕府に出頭して裁きを受けます。

武断政治から文治政治への転換を進めていた幕府は、この行為を赦さずに断罪に処す様相でしたが、当時の大老井伊掃部頭かもんのかみ直澄源八の態度に感銘したのか、この度の行為は「孝心の手本、武士のかがみ」と評価し、死一等を減じて伊豆大島への流罪を命じます。

源八は流罪から6年後の延宝6年(1678)に天樹院(千姫)13回忌追善法要による恩赦の後、井伊家に200石で召抱えられています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この「浄瑠璃坂の仇討」ですが―

源八ら一党40人以上が、(1)徒党を組んで、(2)お揃いの衣裳〔火消し装束〕に身を包み、(3)夜討ちを実行し、(4)火事を装って屋敷内に迫り、(5)事が成就した後、自ら出頭して公裁を仰いだ、という手順や方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件での赤穂浪士らの討ち入りにおいて大いに参考にしていたとされています。

実際、徒党を組んでの仇討ちは禁じられていて、本来ならば死罪であるのに源八らへの処分は余りにも寛大で、しかも恩赦の後に彼らの殆んどが他家へ再仕官を果たしています。

そう考えると、赤穂浪士らも討ち入りが成就すれば再仕官の道が開けるのだ―と考えていたのでしょうかね。

当時の落首に云います―
「語れ聞こ浄瑠璃坂の敵討ち、さてもそののち流されにけり」と…


 


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posted by 御堂 at 00:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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