「医は仁術」小石川養生所と赤ひげ先生

享保7年(1722)12月13日、江戸幕府立「小石川養生所」が開設されます。

徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗が享保6年(1721)8月、江戸城辰ノ口の評定所(当時は「寄合場」と呼称していた)前(現、東京都千代田区丸の内)に将軍への直訴制度として設置された目安箱(※1)を設置していたのですが、同年12月、漢方医で町医者の小川笙船が江戸市中の身寄りのない貧民たちの救済のため、施薬院のような無料の医療施設の設置を求める意見書を投じます。

そこで幕府は、小石川御薬園おやくえん(現、小石川植物園)内に「小石川養生所」を開設し、享保年間以降、幕末期まで146年間貧民救済施設として医療活動を実践していきます。

※1 目安箱
「目安箱」という呼称は、「藩」という歴史用語と同様に明治政府が使用した用語であって、当時(江戸時代)においては、単に「箱」と呼称していたようですね。(『徳川実紀』や『御触書寛保集成』には「名もなき捨て文を防止するために、評定所に『箱』を設置した」とあります。)


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幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、寛永15年(1638)に麻布と大塚に薬園を設置します。

やがて大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684)には麻布の薬園も館林宰相だった徳川綱吉の小石川にあった下屋敷で白山御殿と呼ばれていた跡地に移設され、その後この地に小石川御薬園が設置されるのです。この場所で様々な薬草の栽培や、国外から持ち込んだ植物の移植を行わせ、本草学(※2)の実験場とします。

※2 本草学
中国古来の植物を中心とする薬物学で、薬用とする植物・動物・鉱物の、形態・産地・効能などを研究する学問。日本では自生する植物・動物などの研究に発展し、博物学・植物学などに受け継がれた。


享保7年(1722)12月、小川笙船の意見書により、江戸町奉行(南町奉行)の大岡越前守忠相に検討させ、御薬園内の約1000坪の地所を区切って「小石川養生所」が開設されますが、貧民救済を目的とし、入所者は病苦に悩む貧窮者に限られ、治療その他一切の費用は官費による負担でまかないました。御薬園内で生成された薬を市民に施すことから「施薬院」とも呼ばれていたようです。

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その後、慶応元年(1865)9月、医学館の管轄に移った形で「小石川養生所」は一旦廃止されるのですが、維新後、慶応4年(1868)6月、「貧病院」と改称され存続しますが、漢方医廃止の方針により閉鎖されてしまいます。

その後、小石川御薬園と「小石川養生所」の施設は、管轄が東京府(現、東京都)→文部省(現、文部科学省)と移り、明治4年(1871)9月には博物局に所属します。

明治10年(1877)には東京大学に払い下げられて最終的には同大学理学部に組み込まれ、小石川御薬園は「小石川植物園」(正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園)となり、「小石川養生所」は東京大学医科大学附属医院(のち東京大学医学部附属病院)小石川分院となります。

園内には当時「小石川養生所」で使われていた井戸跡が保存されており、水質が良く、水量も豊富で、実際に関東大震災(大正12年=1923=9月)の折りには命からがら避難し、家を亡くした3万人もの被災者たちの飲料水として大いに役立ったと云います。

「小石川養生所」が担っていた貧民救済を目的した施設は、明治5年(1872)10月15日に設立される養育院(現、東京都健康長寿医療センター)によって引き継がれていきます。

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意見書を出した小川笙船は、戦国時代~安土桃山時代の武将で伊予国府城国分山こくぶやま、愛媛県今治市国分)城主だった小川土佐守裕忠すけただの子孫で、江戸時代の町医者で漢方医でした。

笙船は「小石川養生所」(以下、養生所肝煎きもいり職(幕府の職名で、同職中の支配役・世話役)に就任し、以降笙船の子孫が代々幕末まで7代に渡り世襲します。

山本周五郎氏の小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督の作品「赤ひげ」では「赤ひげ」こと新出去定にいできょじょうがこの小川氏の下で働く医長として描かれています。

実際、「赤ひげ」の舞台設定として、少なくとも天保14年(1843)以降と考えられます。養生所の番医は当初定員が9名で本道(内科)、外科、眼科に分かれていましたが、享保18年(1733)9月に7名に、天保14年(1843)の制度改革によって7名から5名に削減され、全て町医者が担当するように切り替えられています。『赤ひげ診療譚』および「赤ひげ」では養生所の番医の定員が内科医、外科医、婦人科医から成る5名となっていますので…

「小石川養生所」は柿葺の長屋で薬膳所が2か所に設置され、収容規模は享保7年(1722)の開所当時40名でしたが、翌8年(1723)建物が増築されて100人、同14年(1729)ついで150人となりますが、同18年(1733)から120人→117人となり、以後幕末まで変わらなかったようです。

当時の医療は漢方(東洋医学)が主流で、勤務形態は肝煎を除いて、本道(内科)・外科・眼科の医師が医療行為に従事していました。

その後、医師として長崎で南蛮外科を学んだ杉本家の第3代・杉本良英よしふさが勤務するようになり、幾分か西洋医術も採り入れられたようです。

勝手な解釈だけど、映画やドラマになった「赤ひげ」に登場する長崎で修行した見習医・保本登(やすもと・のぼる)は杉本良英、あるいは杉本家の人だったら面白いよね。

享保7年(1722)の開所から安政6年(1859)に至る137年間の全入所者数は、累計3万2000人以上であり、そのうち1万6000人が全快退所とされているので、かなりの治療実績があった医療施設であったのではないでしょうか。