(トピックス)「村八分、まかりならん」―菰野藩のお裁き、意外に民主的か!

種田さんが判読して現代文に直し、解説を加えた古文書『諏訪村入作喜七一件綴』

江戸時代の後期、他所よその村から転入者を「村八分」にして追い出そうと訴えた村人たちに、菰野こもの藩(伊勢国三重郡菰野村、現在の三重県三重郡菰野町大字菰野、に陣屋を構えた藩)が下したのは、逆に重い処罰だった―

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文政5年(1822)、菰野藩の目安箱に奉行所宛の訴状が入っていました。

訴訟は諏訪村の「百姓一同」26人の連名で起こされ、その内容は、近くの村から引っ越してきた喜七という者に対し、「村の風儀になじまない」と主張し、元の村に戻らせるよう求め、それがだめなら、村人全員を別の村へ移住させてくれ、というものでした。

喜七は、諏訪村に持っていた土地に移住したのですが、村人と折り合いが悪く「村八分」にされていたようです。

藩の裁決は訴訟があった翌年の文政6年(1823)4月に出され、村人からの訴えは却下され、村人のうち首謀者1人は「追放」、3人は勤労奉仕と蟄居謹慎、9人は勤労奉仕の処罰を受け、残る13人は“同調圧力”に屈して名前を連ねただけと判断されたのか、「しかり」という処分が下されます。

一見、喜七の全面勝訴のような感じですが、実は喜七に対しても「普段から出すぎている(ところがある)」として「叱」の処分が下ったのです。

当時の慣習でもある喧嘩両成敗にするために喜七も形式上処分したようですね。

藩は「(村人たちは)農業を怠り、強訴ごうそ徒党のような状況で秩序を乱した。人口が少ない村で田畑の耕作をしかねている状況なのに、引っ越してきた者を追放しろとはけしからん」と指摘し、「首謀者に下した『追放』は死罪に次いで重い処罰」といい、徒党を組んでのいじめや差別に、厳しい「お上の裁き」が下されたことが読み取れますね。

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『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』

さて、小さな藩で起きた訴訟についての古文書『諏訪村入作喜七一件綴』を、名古屋市博物館元学芸員の種田祐司さんが読み解きました。

こうした訴訟関係の内容―奉行所宛ての訴状、被告側が出した弁明書、藩の裁決文書など―訴訟に関する一連の文書類を含む約160点が菰野町の旧家で喜七の子孫にあたる横山家の土蔵で見つかった古文書の中に含まれていました。

現在の横山家の当主で前名古屋外国語大学准教授の横山陽二さんが、古文書研究の専門家である種田さんに読み解きを依頼し、『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』を上梓したそうです。

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菰野と言えば、夏の高校野球の三重県代表になった時、話題になった事がありましたね。この地に慶長5年(1600)、土方雄氏ひじかたかつうじが1万2千石の知行分を拝領し、翌6年(1601)入封して陣屋を築きます。以下の史料は、元和3年(1617)の知行宛行状です。

伊勢国三重郡之内十五箇村壱万石余、近江国栗太郡之内四ヶ村弐千石、都合壱万弐千石余目録在別紙事、令扶助訖、可全知行者也、
 元和三年五月廿六日 朱印(徳川秀忠)
土方丹後守(雄氏)トノへ

入封して以降、12代雄永に廃藩置県(明治2年=1869)で藩政を閉 じるまでの約270年間、藩主の転封、移封もなく土方氏の治世下にありました。

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土方義苗

当該期の菰野藩藩主は第9代藩主・土方義苗よしたねでした。

義苗が藩主となる以前、菰野藩の財政は毎年の借入金によって支えられている、といったような現状で、ひどく窮迫し、破綻寸前の一途をたどっていました。

そこでまず義苗は財政改革に乗り出し、緊縮財政による藩財政の再建に取り組みます。

義苗はその打開策として、寛政10年(1798)「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を一割二分の利子で13年間に1500両も積み立てます。

その反面、領内に「御倹約触」と称する勤倹質素を奨励する御触おふれ(※)を出すなど厳しく取り締まり、その結果12年間で9800両の借金を1400両にまで削減させます。

※こうした御触は、義苗の治世下だけで9回も出されたようで、その内容は、
  • 目上の者を敬愛すること、
  • 風儀を糺すこと、
  • 百姓に似合わざることをしないこと、
  • 村方の倹約をすること、
  • 男女の衣服は木綿を着用すること、
  • 往還道・橋や耕作道の修理をすること、
  • 家中諸士へ無礼をしないこと、
  • 召使い等を領分内から召し抱えること、
  • 火の用心に気を付けること、
  • 怪しく疑わしい者を見掛けたら申し出ること、
  • 竹木や土芝等を取らないこと、
  • 他領へ対して非道をしないこと、
  • 領内での勧進芝居・相撲をしないこと、
  • 若輩者への対応をすること、
  • 庄屋が身上不相応者へ適切な対応をすること、
  • 音信贈答に無益な費用を使わないこと、
  • 仏事・神事を華麗にしないこと、
  • 博奕を禁止すること、
  • 人倫を乱さないこと、
  • 鳥類を鉄砲で殺生しないこと、
  • 庄屋は村の手本であること、
  • 村役人の申し付けに背かないこと、
など22箇条から成り立っていて、それぞれ「御領内村々へ被仰出(おおせいだされ)」と銘打っており、これが菰野藩の領内統治の根本法令であったと思われます。

菰野藩は貧乏しても借金しても、領民を苦しめなかったのが大きな特徴としてあり、年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新での廃藩まで一揆がなかったといいます。

江戸時代、幕府による検地は1間が6尺(約181・8㎝)の検地竿(間竿けんざおともいう)によって一反300歩で測量されるのが基本ですが、菰野藩では領民たちが強く反対したため、反発が強い村落はでは一反360歩で検地を実施し、あとは免率で調節したそうです。

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さらに、民政面では目安箱を設けて優秀な意見を採用したり、教育面では学問を奨励して後の藩校・修文館の前身となる私塾・麗沢書院を設立するなど、人材の育成にも努めます。

こうした成果もあって、義苗は菰野藩中興の名君と云われ、以降の藩主もこうした施政を引き継いだため、菰野藩では江戸時代を通じて一度も一揆が起きたことがないと云います。

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さて、「村八分」とは、村落共同体(村社会)の秩序を維持するために行われた制裁行為のことです。

村落共同体(村社会)では、みんな共同で助け合うべき行為が10個ありました―

①出産、②成人(元服)、③結婚、④葬式、⑤法事(祖先を祀る)、など冠婚葬祭にあたる行事、⑥病気、⑦火事、⑧水害、⑨旅立ち、⑩普請(新築・増改築)、などの手伝いや世話を示します。このうち、葬式の世話と火事の消火活動については、放置した場合に他の人間に迷惑のかかるので交流はするが、それ以外の8つについては、一切の交流を絶つ、というものです。

まさに、「村八分」は村民全体が申し合わせて一人の者に対して、集団で制裁を加える、といった集団行動主義好きな日本社会における代表的ないじめ行為なのです。

但し、この「村八分」という行為は少なくとも江戸時代の寛政年間頃より使われるようになった用語のようですが、江戸時代の村落共同体(村社会)において「村八分」がなされた最大の措置が入会地いりあいちの利用停止と云われています。

入会地とは、村民が村落共同体(村社会)で共同で利用する土地のことで、薪炭・用材・肥料用の落ち葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺く萱などを採取した原野・川原である草刈場の2種類に大別されます。

「村八分」の措置がなされ、入会地の使用が停止されると、落ち葉の入手に窮したり、入会地に属する水源の利用ができなくなるなど、村落共同体(村社会)における生活に困窮することとなるのです。

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この『菰野横山家蔵古文書の翻刻~永禄(重廣)から明治(久平)まで~』は、菰野町図書館や三重県立図書館で閲覧可能。三重大学、名古屋外国語大学のほか、東京大学史料編纂所、早稲田大学、慶応大学への寄贈が決まり、それぞれの図書館でも読むことができるそうです。

京都にいる私にとっては、閲覧不可能な感じ‼