「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」

私が高校3年生の頃に観たドラマ「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」がCSの日本映画専門チャンネルで再び視聴できます。

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「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」は、昭和58年(1983)1月2日にテレビ東京系列で放送された「12時間超ワイドドラマ」(のちの新春ワイド時代劇)の枠で放送されたテレビドラマです。

あらすじとしては―
海軍一筋に生きた山本五十六の生涯を約12時間の6部構成で描いた巨編。テレビ東京系列で1983年の正月番組として放送された。原作の阿川弘之や脚本に名を連ねる新藤兼人らの、多くの犠牲を伴う戦争への痛切な思いを、豪華俳優陣が真摯に体現。戦死を遂げた山本五十六の波乱の生涯を、彼の家族や友人、部下達とのふれあい、そして彼を愛し見守り続けた女性達との絆、歴史の奔流の中で消えていった名も無き人々の哀歓を交えながら描き出す。
といったもの。6部構成の各サブテーマは、

  •  第1部「日本海大海戦の激闘」
  •  第2部「宿命に揺れる初恋」
  •  第3部「決死の霞ヶ浦航空隊」
  •  第4部「日米開戦前夜」
  •  第5部「怒濤の連合艦隊」
  •  第6部「長官機撃墜の謎・戦艦大和の出撃」

  • となっていて、阿川弘之氏の『軍艦長門の生涯』、高橋孟『海軍めしたき物語』などを原作ベースに新藤兼人氏らの脚本で辛辣に当時の様子が描かれています。

    主な配役陣は、

    • 高野五十六(のち山本五十六)=古谷一行さん
      →第26代・第27代連合艦隊司令長官
    • 五十六の妻・礼子=檀ふみさん
    • 佐世保の芸奴・小太郎(鶴島正子)=池上季実子さん
      →五十六の初恋の女性
    • 新橋の芸者・梅龍(河合千代子)=樋口可南子さん
    • 空母「赤城」戦闘機隊長・波木の下宿屋の娘=杉田かおるさん
    • 古川敏子=岩井友見さん
      →料亭「新橋中村家」の女将
    • 五十六の実姉・高野嘉寿子(加壽):河内桃子さん
    • 五十六の従兵・後藤一作=岡本信人さん
    • 東郷平八郎=芦田伸介さん
    • 南雲忠一=金子信雄さん
    • 草鹿任一=平田昭彦さん
    • 草鹿龍之介=中井啓輔さん
    • 大西瀧治郎=藤巻潤さん
    • 古賀峯一=木村四郎さん
    • 堀悌吉=新克利さん
    • 米内光政=渡辺文雄さん
    • 井上成美=仲谷昇さん
    • 反町栄一=山田吾一さん
    • 伏見宮博恭ひろやす王=穂積隆信さん
      →海軍軍令部長→軍令部総長で「伏見軍令部総長宮」と呼ばれた。
    • 近衛文麿=高橋昌也さん

    放送予定は、9月23日、第1部から第6部までの一挙放送になっています。

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    すごく懐かしいです。今まで録画する機会を逸していたので、今回は全編滞りなく録画しようと思っています。

    特に印象に残っているのは、山本五十六の戦死シーンでしょうね。

    昭和18年(1943)4月18日、ブーゲンビル島やショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウル島からブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てていたのを、アメリカ軍に暗号傍受され、待ち構えていたアメリカ戦闘機にブーゲンビル島上空で襲撃・撃墜されて戦死するのですが、このシーンが(当時としては)割と詳しく描かれていて強烈なイメージを今も思い浮かべています。

    とにかく、36年ぶりに視聴できる「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」というドラマ、しっかり目に焼き付けないと!

    (トピックス)平安京の範囲が確定!「羅城」と「九条大路」を初確認 「延喜式」に合致

    平安京で初めて出土した羅城の土壇跡。九条大路の側溝や路面も初めて見つかった

    京都市埋蔵文化財研究所は、元京都市立洛陽工業高等学校の校舎(唐橋校舎)跡地(同市南区)で行われた平安京(城)跡の発掘調査で、平安京(城)の最南端に当たる九条大路と、平安京(城)と京郊外の境目を隔てていた築地塀ついじべい羅城らじょうの一部の遺構が確認されたと発表しました。

    今回遺構が確認された場所は平安京(城)の玄関口であった羅城門跡から西へ約630mの場所にあり、平安京(城)の右京九条二坊四町にあたります。

    発掘されたのは、東西方向に延び、砂利を敷き詰めて舗装した路面跡と、その南北の側溝跡、さらに南側の側溝の外側に砂利と土を締め固めた土壇跡、何れも平安京(城)が造営された9世紀から10世紀頃の遺構で、路面は九条大路、土壇は「羅城」を築いた基底部分とみられます。

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    平安京右京九条二坊四・五町跡発掘調査現場

    桓武天皇が延暦13年(794)に遷都した平安京(城)の規模は、根本法令である律令を補完するため10世紀頃にまとめられた法令集『延喜式』に造営当初の施工計画が記されており、それによると南北1753丈(1丈=3m、約5・3㎞)、東西1508丈(約4・5㎞)で、京域内の南北中心線上にメーンストリートとして朱雀大路が通り、その南端を東西に通る九条大路との接点に玄関口として「羅城門」が建っていました。

    九条大路の遺構は路面跡などに残る土器などから9~10世紀のものとみられ、北側の側溝跡、路面跡、南側の側溝跡、側溝と築地塀の間の狭い平地「犬行いぬゆき」(犬走いぬばしり)跡がそれぞれ確認されました。

    南北両側の側溝跡は幅が約1・2m、「犬行」(犬走)跡が約1・5mである事が確認され、北側の側溝跡から南側の側溝跡までの幅は約30メートルで、これが路面の幅とみられます。

    『延喜式』には「南きわ大路十二丈。羅城外二丈垣基半三尺,犬行七尺。【溝廣一丈。】路廣十丈」(『延喜式』卷第42 左右京職 東西市司、京程)とあり、

     「溝廣」(溝の広さ)は「一丈」なので3m、
     「犬行」「七尺」なので2・1m、
     「垣基半」「羅城」を築いた基礎部分)は「三尺」で0・9m、
     「路廣」(路面の広さ)は「十丈」なので約30m、

    合わせると、12丈=36mとなり、『延喜式』で定められた「大路十二丈」と一致することが確認されました。

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    一方で、「羅城」の基底部分にあたる土壇跡は南北方向に幅約3m、東西方向に約4m延び、高さが約15㎝で砂利や小石、土を交互に締め固めた跡が確認されました。

    「羅城」とは、都城制を敷いていた古代中国の首都・洛陽や長安において外敵から守るため周囲に築かれた城壁を指し、中国では高い城壁を巡らせて囲っていました。

    日本において、平城京(城)では南辺のほぼ全体にあった事が発掘調査などで確認済みですが、平安京(城)「羅城」については見つかっていませんでした。

    通説では、京域内を荘厳に見せるためにその玄関口にあたる「羅城門」と周囲、すなわち国家鎮護の官寺・西寺まで設けられていた、としていて、『延喜式』にも「羅城」の規格は南限の九条大路にしか付記されていません。

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    発掘を担った同研究所によると、平安京(城)の四辺の境界にあたる道路のうち北、東、西では遺構が確認されていたが今回の南側の発掘で、平安京(城)の南限が考古学的に確定し、『延喜式』に記載された平安京(城)の広さが考古学的に裏付けられたとしています。

    また、今回の成果について、西山良平・京都大学名誉教授は「平安京が実際にどの程度まで造営されたかは古代史上の争点だったが、南端までかなり丁寧に高い精度で造られていた事がはっきりとわかった。今後の平安京研究の基準となる大きな成果だ」と話されています。