封建社会の下でみられた武士の介護休暇制度

私事ですが、昨年の9月、87歳になった父が脳梗塞と誤嚥性肺炎のため、入院することになりました。

救急搬送され、精密検査の結果、脳梗塞の影響で左半身不随、誤嚥性肺炎のために胃ろうの手術をすることとなり、主治医の先生から自宅療養の可能性はないと宣告されました。

その後、半年の月日が経ち、現在は2つ目の病院に転院し、先日には要介護認定5の認定を受けました。

私は一人っ子のため、小さい頃から親の扶養や介護、そしてその後のターミナルケアも覚悟していたので、「その日が来たか!」という感じでいましたが、頭の中でイメージする事と現状を目の当たりにした実情は違いますね…

でも、私がしっかりしないと85歳になる母も支えてあげないといけないし、踏ん張らないとね‼

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こうした状況になって、想い出した歴史記事があります―

それは江戸時代後期のお話で、丹波亀山藩(のち亀岡藩)形原松平家の武士が国許に暮らす祖母が重病のため、その介護するために休暇届を申し出たところ、許可されて帰国したそうです。

その人物は「京火消詰」(※1)という勤番職に就いていた伊丹孫兵衛という藩士で、文政3年(1820)4月19日付で亀山藩の家老や年寄らに宛てた「奉願口上之覚」が介護休暇願に該当するようです。

※1 「京火消詰」
「京火消詰」とは、京都の消防を担当する大名火消で別に「京都火消役」とも言われます。丹波亀山藩は、山城淀藩、大和郡山藩、近江膳所藩ら譜代4藩のうち藩主が在国中の2藩が半年交替で、それぞれの京屋敷に詰めて勤め、京都の消防=とくに御所・二条城周辺の消防=に重点が置かれた軍役の1つであり、禁裏の軍事防衛という性格を有していたものでした。


一、  奉願口上之覚
  私祖母義従先此病気之處此其節不相勝候段申越候、
  然處老人之義ニ付全快之程無覚束、何卒存命
  中暫茂看病仕度詰先之義御暇奉願候義、
  甚以恐入候得共、以御憐愍看病之御暇被下置候様、
  奉願候、此段不苦思召候者可然様御執成可被下候奉頼候、以上、
   辰四月十九日
                 伊丹孫兵衛 印
    坂部四郎右衛門殿
    西郷八大夫殿


その内容を要約すると、

私の祖母が、先頃から病気で、今も調子がよくないと国許(亀山)から連絡がありました。老人の事ですから、全快するとは思えません。なにとぞ、祖母の命があるうちに、暫くでも看病をしてやりたいので、火消詰の休業をお願いします。はなはだ恐れ入りますが、看病のためお暇を下さりますようお願いいたします…

と祖母が重病になったため、介護休暇(「看病之御暇」)を願い出て、「奉願口上之覚」という介護休暇申出書を重役らに提出したというものになっています。

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日本では近い将来に訪れるであろう少子高齢化社会問題に伴い、平成11年度から介護を必要とする家族のある労働者が、一定期間仕事を休業して、介護を行い、再び職場に復帰する制度を法律により企業に義務づけています。いわゆる介護休暇制度ですね。

介護休暇を申し出る際には介護休暇申出書を提出しますが、上記の「奉願口上之覚」はまさにそれに相当するものといえます。

この「奉願口上之覚」は前触れもなく突然に出されたものではなく、事前に伊丹の親類が藩の重役たちに内々に申し出があって、協議されていました。

その協議では、介護の対象者が親でなく祖母である事が問題となったようです。

幕府は寛保2年(1742)、武士が身内に病人が出た際に、出仕遠慮を願い出て、届出書を出せば即退勤できる「看病断」(かんびょうことわり)という制度がありました。

但し、「看病断」は父母と妻以外は認められないとし、近親者については願い出れば検討するというもので、亀山藩では過去に江戸藩邸に詰めていた藩士が大病を患った祖母の看病のために帰国を許されたという先例があった事から認められることになりました。

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この時、伊丹は「京火消詰」の1人として、火災現場で警備を取り仕切る責任者と思われる長柄(鑓)奉行を勤めていました。

伊丹にとっては、勤務を後11日残しての申し出ですが、祖母の命があるうちに看病をしたいと余程切羽詰まっていたのでしょうね。「奉願口上之覚」を提出した4月19日に国許へ帰国します。

その間、介護休暇中の仕事(長柄〔鑓〕奉行の役務)は、残り日数が少ない事から国許から交替者は派遣されませんでしたが、他の火消詰の藩士により代行されました。

伊丹が介護に専念した結果、祖母は快方に向かい、伊丹は5日後の24日には現場復帰したそうです。

以上の事から、少なくとも 丹波亀山藩は二度にわたる介護休暇を認めていたという事です。
もちろん、現在の労働者と武士の立場は異なると思いますが、 丹波亀山藩の藩士には祖母まで対象とした現在のような介護休暇制度があったといえるではないでしょうか。

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「看病断」に代表される武士の介護休暇制度には諸藩にも同様の仕組みがあったようです。

諸藩ではそれぞれ「看病願」(上野高碕〔高崎〕藩、阿波徳島藩)、「看病御暇願」(相模小田原藩、陸奥仙台藩、陸奥八戸藩、出羽秋田藩)、休暇は「介抱御暇願」(陸奥森岡〔盛岡〕藩)、「付添御願」(陸奥弘前藩)などと呼ばれていました。

江戸時代、親の介護や看取りは家長たる男性の責務でした。

それ故、その責務を放棄したものは家産の相続を放棄した、と考えられていたようです。

さらに、こうした実態は武士階級の上下階層によって異なった状況があったようで、下級武士のなかには介護のために奉公を辞めざるをえない事態に追い込まれ、窮乏を余儀なくされた者もいたそうです。

また、介護や看取りの中心となっていた家長の後継である跡取りの者も結婚難・離婚・再婚難に直面して、あらたな家族形成に支障をきたす事態も生まれたようです。

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江戸時代の武士階級も現代に通じるものがあったようですね。明治以降、令和に至る近現代の日本社会では失くしてしまった社会概念が、まだ江戸時代の方が寛容だった気がします。

私自身、一人っ子として=次代の家長としてしっかりと親の介護や看取りに向かわなきゃ!

『蝦夷種痘図』にみる危機管理意識

蝦夷えぞ種痘しゅとう図』という絵がある。幕末の安政年間に行われた幕府のアイヌへの集団種痘の様子を描いた絵だ。和人やロシア人から感染した天然痘てんねんとうで、免疫のないアイヌに多数の死者が出ていた時代だった▲絵には並んで順番を待つアイヌに種痘を施す幕府派遣の医師2人、上座の奉行ら3人の役人、記録する書記役などが描かれている。種痘を終えたアイヌたちはいろりを囲んで懇談し、会場には食器や布など種痘の報奨品も積まれている▲同じような絵は何種類かあり、ほうびの菓子であやしても泣きじゃくる子の姿もある。医師らは各地の居住地を回り当時のアイヌ人口の半数以上に種痘を施したといわれる。多くの命を病魔から救った幕末の一大プロジェクトだった▲…(以下、略)…(余録「蝦夷種痘図」という絵がある…(『毎日新聞』令和3年(2021)1月28日付朝刊より)

種痘とは、天然痘の予防接種の事で、ワクチンをY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種します。

世界的には昭和55年(1980)に天然痘ウイルスは撲滅されたとされ、日本でも昭和51年(1976)を境に予防接種が行われていません。

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安政3年(1856)7月、箱館奉行に就任した村垣むらがき範正のりまさは幕府直轄領であった蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進し、同年12月17日から翌4年(1857)3月24日までの間、蝦夷地を巡回視察します。

そこで観たのが、疱瘡ほうそう(天然痘の事、痘瘡とうそうともいう)が蔓延していたアイヌ人たちの姿でした。

その当時、疱瘡自体が和人(江戸幕府が「アイヌ人以外の日本人」の事を指して用いた歴史用語)が蝦夷地に持ち込んだ病気だった事もあってか、免疫力のないアイヌ人たちの間に大流行してしまったためようで、一時はアイヌ人総人口の4割近くが死に至ったそうです。

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こうした惨状を改善しようと村垣は巡回視察中の安政4年(1857)正月19日に幕府に対して蝦夷地に住むアイヌ人への種痘願を建言。

幕府も事態を重く受け止め、翌月に種痘の出来る医師として江戸から桑田立斎りゅうさいと弟子3人、そして箱館出身の深瀬洋春を御雇医師として蝦夷地に派遣します。

5月5日に箱館に着いた桑田立斎は東蝦夷地側(太平洋側から千島列島にかけての地域)を、深瀬洋春は西蝦夷地側(日本海からオホーツク海にかけての地域)を巡って、アイヌ、和人の別なく種痘を実施。

翌5年(1858)には北蝦夷地(樺太)や千島でも実施され、当時のアイヌ人の人口の半数以上が種痘を受けたといわれ、これがわが国初の強制種痘でした。

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こうした状況を描いたのが『蝦夷種痘図』です―

上記のような種痘の様子を箱館(函館)の豪商「福島屋」の2代目である杉浦嘉七(井原忠三郎)がその知遇を得ていた、アイヌ絵師・平沢屏山びょうざんに描かせ、安政4年(1857)10月21日頃に村垣に献上したものだそうです。

村垣が記した公務日記には「(安政四年)十月二十一日 種痘之図嘉七出す。順庵江讃頼之」(『村垣淡路守公務日記』)とあり、安政4年(1857)10月21日までには図が完成したことが判ります。

(トピックス)参勤交代中、大名が急死!そのとき本陣はどうした?草津宿本陣、最大の事件を紐解く資料展

「佐土原藩主急死事件」に関わる新資料が並ぶ特別展

江戸時代、幕府が定めた制度の中に「参勤交代」という制度がありました。

「参勤交代」とは、全国の諸大名や交代寄合などを交替で江戸に出仕させる制度です。

寛永12年(1635)3代将軍・徳川家光の時代に「武家諸法度」が改定(寛永令)され、その第2条で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されたことにより徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的として「参勤交代」が明文化されます。

「参勤」とは自分の領地から江戸へ赴くこと、「交代」とは自分の領地に帰還することを指し、鎌倉幕府から続く慣習としては、武家の棟梁(=征夷大将軍)である徳川将軍に「御恩」として領知を宛行われた事に対して、「奉公」として将軍の許に出仕する、との意味合いがあります。

但し、「参勤」は実際に、「参」(まい)って「覲」(まみ)える(=目上の人に会う)」という意味で、正しくは「参覲交代」と表記すべきところ、誤って「参勤交代」と記載してしまったために、慣例化してしまったのだとか―

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東海道と中山道なかせんどうが分岐・合流している交通の要衝である近江栗太くりた郡草津町にある草津宿じゅく(現在の滋賀県草津市草津)には大名らが休泊する本陣が2軒ほどありました。その1つ、田中七左衛門本陣は現在も江戸後期の建物が現存しており、「史跡草津宿本陣」として国史跡に指定されています。

kusatsujukuhonjin_003.jpg約40室を有する草津宿本陣 草津宿本陣に保存されている数々の宿札

寛永12年(1635)6月、田中七左衛門が本陣役(本陣職)を拝命して以降、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として明治3年(1870)10月に本陣としての名目が制度廃止されるまで務めました。

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そんな田中七左衛門本陣で大変な騒動があったのです。

江戸時代後期の天保10年(1839)4月7日、江戸への参勤途中だった日向佐土原さどわら(現在の宮崎県宮崎市佐土原町)第10代藩主・島津しまづ忠徹ただゆきが到着したその日の夜にしゃく(何らかの内臓疾患)のため急死してしまったのです。

突然の忠徹の死に随行の家臣たちは慌てふためきます。

忠徹は享年43歳。世継ぎである忠寛ただひろ忠徹の次男)はまだ12歳と幼かったため、跡目相続自体申請しておらず、幕府に知れると事態は一転して佐土原島津家は御家断絶、佐土原藩は改易・お取り潰しの危機に直面したのです。

家臣たちは、忠徹の死を伏せたまますぐさま急飛脚を出し、江戸藩邸には「病気の為、草津にて逗留中」、国許には「殿様死亡」を知らせ、善後策を講じます。

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忠寛への跡目相続の許可を得るには急飛脚を使っても約50日は掛かります。

家臣たちはは本陣当主の田中七左衛門忠徹の遺体安置の協力を求め、忠徹の死を隠し、忠徹が存命しており、本陣で病気逗留中であるかのように装って時間を稼ぎます。

その間、田中七左衛門本陣も窮地に陥り、他の大名たちの宿泊予定を、別の本陣や脇本陣に振り替えたり、前後の宿場町に変更するよう要請したり、と交渉や工作に難渋したようです。

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また、跡目相続のための願書には現藩主であるに忠徹の判と花押が必須なのですが、「手が震えるので花押は省略する」との一文を添えるなど、家臣たちの苦心が窺えます。

家臣らの奔走もあって忠寛への跡目相続の書類が全て揃ったのが翌月の5月25日、忠徹の死は翌日の26日に公表され、田中七左衛門本陣の表門前に掛かる札が「島津飛騨守遺骸宿」に替えられたとあります。

関札(関所手形)が出て、忠徹の遺体が本陣を出発したのが6月25日。この日までの77日間、本陣は大切に安置されたのです。

さらに出発の際、忠徹に随行していた家老が心労で倒れてしまったため、代わりに田中七左衛門愛知川えちがわまで見送った、という記録も残っています。

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佐土原藩は改易・お取り潰しの危機を脱し、その感謝の礼として田中七左衛門に金300両や「丸に十文字」の家紋入りのかみしもを下賜するとともに、忠徹の遺体を安置した上段の間の改修をも行っています。

また、その後明治に至るまでの30年近く、毎年5月に米10俵を贈り続けたそうです。

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上記の島津忠徹の急死事件を扱った特別展「本陣職はつらいよ~佐土原藩主急死事件とその後~」「国指定史跡草津宿本陣」で催されています。

同展では七左衛門忠徹ひつぎの装飾などを京の職人に発注した文書や、藩主の最側近である「側御用人」が七左衛門に当てた感謝状など、平成30年(2018)6月から始まった草津宿本陣歴史資料調査でこの夏新たに発見された史料3点を含む計24点を展示。客を守るために協力した田中七左衛門本陣の姿勢も窺えます。

急死した藩主の家臣から本陣当主にとどいた礼状「田中七左衛門宛狩野勇書状」

新たに発見された史料は、本陣の調査で今年7月に見つかったもので、忠徹の参勤に付き従った家臣の狩野勇が七左衛門に宛てた礼状「田中七左衛門宛狩野勇書状」といい、「こまやかな心遣い誠にありがとうございました…(中略)…来春に帰国する際には1泊お願いの予定でおりますので、積もる話はその時まで残しておきます」などと感謝の気持ちが丁寧に綴られています。

天保十年大福帳

さらに特別展では、「四月七日御逝去」と実際には4月7日に亡くなった忠徹の死亡日時を「御病に付き御滞留遊ばされ候」と病気療養を装い続け、5月26日と記載した表向きの大福帳(宿泊簿)や、七左衛門が事態の一部始終を記録した留書とどめがき、宿泊予定日を当初の1泊2日から77日間へと書き直した宿割帳などが展示されます。

また、この事件を機に佐土原藩は定宿をこの田中七左衛門本陣に代えたそうです。七左衛門の役割や苦労などに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

開催期間は11月29日まで。詳細は史跡草津宿本陣まで。

(トピックス)「承久の乱」描いた絵巻 80年ぶりに再発見

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平安期から鎌倉期の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時の専横に対して反北条義時の追討を命じたが、逆に鎌倉幕府の軍勢に京都を蹂躙じゅうりんされ、朝廷方が惨敗した「承久の乱」を描いた現存唯一の絵巻とされる『承久記絵巻』が、約80年ぶりに発見されたと云います。

『承久記絵巻』は軍記物語『承久記』を基にしたもので、元々は高野山真言宗・別格本山龍光院(和歌山県伊都郡高野町高野山)が所蔵していましたが、昭和14年(1939)4月に恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館、京都市東山区茶屋町)で展示されたのを最後に、所在が分からなくなっていました。

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『承久記絵巻』は全6巻で、各巻の長さは横が約15m、縦は約50㎝。保存状態は良好のようです。

収められた木箱には、絵は室町期から戦国期にかけて活躍した絵師の土佐光信筆とあり、詞書ことばがきは能筆で知られた「月輪つきのわ禅定太閤」と呼ばれた関白・藤原兼実による、と記されていました。

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『承久記絵巻』には、『承久記』の本文と鎌倉幕府3代将軍・源実朝が討たれる直前に鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)を参拝している様子から、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時の追討を命じて敗れ、隠岐島(隠岐国海士あま郡中ノ島、現島根県隠岐郡海士町)に流されるまでの全36場面が描かれています。

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さてさて、宇治市民である私としては最大の興味は第4巻目に描かれている「宇治川の合戦」でしょうか。

「宇治川の合戦」といえば、

①治承4年(1180)5月、後白河法皇の第三皇子・以仁王もちひとおうが打倒平家を叫び、それに呼応した摂津源氏・源頼政らの軍勢が南都(奈良)に落ち延びようとした際、宇治橋付近で平家方の追討軍に追いつかれ、戦うも敗れ散った“橋合戦”と呼ばれるもの、

②寿永3年(1184)正月、平家を都から追い落とした信濃源氏・木曽義仲の京都での横暴に対し、義仲追討を命じられた鎌倉幕府軍の源義経軍が義仲軍を宇治川で打倒したもので、“河合戦”と称されます。

③承久3年(1221)6月、北条泰時率いる鎌倉幕府の軍勢が後鳥羽上皇を打ち滅ぼそうと京都に攻め寄せた際、都への防禦ラインとして激戦が繰り広げられたもの、

の3つが浮かびます。今回の「承久の乱」では、わがご先祖様も幕府創業以来、源頼朝の側近だったのに、北条氏によって鎌倉を追い落とされ、京方に組みした結果、騙まし討ちによって打ち滅ぼされたという経緯があるんですよね。

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『承久記絵巻』は来春の4月6日~5月23日、京都文化博物館(京都市中京区東片町)の特別展「よみがえる承久の乱」で公開される予定です。

(トピックス)応仁の乱で途絶えた神仏習合の祈り 「北野御霊会」 550年ぶり再興

並んで本殿に向かう僧侶と神職

学問の神様・菅原道真を祀る北野天満宮(京都市上京区御前通今出川上ル馬喰町、以下、北野天神)で、祭神の菅原道真を慰霊し、神道と仏教が一緒になって疫病や災害をもたらすとされる祭神の怨霊おんりょうを鎮める儀式「北野御霊会ごりょうえが、約550年ぶりに執り行われました。

「北野御霊会」とはて天暦元年(947)6月9日に北野天神が創建されて以来、疫病や災いを鎮めるため行われてきたとされる神仏習合の儀式で永延元年(987)に一条天皇からの使者が派遣され、勅祭「北野祭」の一環として始まりました。

しかし、応仁・文明の乱(応仁元年〔1467〕~文明9年〔1478〕)で「北野御霊会」は途絶え、維新政権下で神社と寺を区別する神仏分離政策(慶応4年〔1868〕3月13日から明治10年〔1877〕1月11日まで)をきっかけに、境内での仏事は全く途絶えてしまったのです。

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北野天神は創建以来、比叡山延暦寺の管轄下にあり、宮司の役割を担う別当職を天台宗京都五門跡(曼殊院まんしゅいん〔京都市左京区一乗寺〕、青蓮院しょうれんいん〔京都市東山区粟田口三条坊町〕、三千院=梶井門跡〔京都市左京区大原来迎院町〕、妙法院〔京都市東山区妙法院前側町〕、毘沙門堂門跡〔京都市山科区安朱稲荷山町〕)の1つで、竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が住持を務める別格寺院)の曼殊院の門主が代々務めており、平安時代以来、幕末期に至るまで北野天神と関係が深かったようです。

曼珠院の開基である是算ぜさんは菅原氏の出身であったことから、北野天神創建と同時に北野別当職(北野天神の初代別当)に就き、歴代の曼殊院門主は以後、明治維新に至るまで別当職を歴任しています。

そうした所縁で、比叡山延暦寺の僧侶が参列し、読経など仏教的な要素も取り入れた神仏習合の「北野御霊会」を共に催されてきました。

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北野天満宮と比叡山延暦寺によって行われた「北野御霊会」

そのような状況下、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、北野天神は今年6月に比叡山延暦寺に新型コロナウイルスなどの疫病退散や健康、安全を祈願する「北野御霊会」の再興を打診した結果、明治期の神仏分離以来、約550年ぶりに神仏習合による祭典が執り行われた訳です。

「北野御霊会」には北野天神の神職と比叡山延暦寺の僧侶らを招き、延暦寺の僧侶が向かい合って座り、法華経の教義を問いかけ合う、天台宗最高の修行とされる「山門八講」が営まれ、新型コロナウイルスの早期終息などを祈られたそうです。